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2014.07.19 白玉よ
    


    露草の 葉先に揺れる 白玉よ

 朝露を全身にたたえ咲く露草。
 艶やかな藍色は雑草の生い茂る緑の中ではひときわ目に付く。
 あちらこちらで背伸びするかのように小さな花をのぞかせ、その姿が“私はここよ”と健気に自己主張しているかのように。

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 「歴史を忘れた民族に未来はない」
 このような意味の横断幕がハングルで大きく掲げられたのは、2013年7月28日に韓国で行われたサッカーの東アジア杯決勝での出来事であった。
 試合は2 対1 で日本チームが優勝したものの、実に後味の悪いものとなった。

 そして今月初めのこと、中国の習近平国家主席が韓国を訪問し、朴槿恵大統領 と両国の発展的な未来について会談した。
 その互いに満面の笑みで握手を交わす姿は、新たな東アジア史を予感させる印象を内外に広く伝えることになった。
 国同士が友好を育むのは決して悪いことではない。
 しかし互いの腹の中は複雑なはずである。
 特に朝鮮民族にすれば、宗主国の名のもと中国から支配され続けてきた屈辱の歴史があるからに他ならないからだ。

 確かに我が国日本も、西欧諸国に追いつけと急速に近代的文化を推し進めるなかで朝鮮国を併合した。
 他国を侵略することはどんな理由があろうと許されることではない。
 しかしあの時に無理にでも大陸に兵を出していなければ、勢いづいたロシアは南下して朝鮮半島に社会主義国家を誕生させたはずである。
 そしてその余波は日本にも及ぶ危険性すらあった。
 こうした意見は資本主義側の都合よい勝手な言い分かも知れない。
 それでもこれまで西欧諸国がやってきた植民地政策と、日本の統治方法は全く異なっていた。
 つまり一方的に搾取するのではなく、立ち遅れていた学校や鉄道などインフラの整備事業も積極的に行ったのも事実であった。
 歴史は忘れてはならない。
 栄光の歴史があれば、屈辱の歴史もある。
 それら紡がれてきた全てが歴史であり、民族のいや人類の誇りと戒めにするべきものだと信じている。

 話をはじめに戻そう。
 あの習主席は韓国訪問中にソウル大学で、学生を前に特別に講演を行った。
 ここで壬辰・丁酉倭乱のことを持ちだした。
 これを日本では文禄・慶長の役と呼んでいる。
 国内を統一した豊臣秀吉の次なる野望は大陸への進出であった。
 ひとりの驕り高ぶった老害の独裁者は、両国の多くの人々を悲劇に巻き込んだのでしまった。
 習主席は話を続ける。
 朝鮮半島全土が日本の将兵に席巻され尽くした時に、これに援軍を指し向け退けたのが当時の明国であると・・・。
 こうして両国が協力し共通の敵に対したことから、今の反日感情は長い時間をかけ共有されてきた堅いものだと韓国のニュース結ぶ。
 だが事実は都合よく歪曲されていることに気づかねばならない。
 明国の目的は国境付近まで迫った日本軍への危機感からであり、朝鮮に対しての義など見出すのは難しい。
 このまま侵略を許せば、大国としての沽券にも係わる。
 それにちょうど王朝の勢いにも翳りが見え始めた時期も重なり、水際でくい止めたい思いとまさに内憂外患の状態に、援軍はよこしたはいいが常に消極的な戦いに終始せざるを得なかった。
 日本軍とて戦が長期化し戦線が長く延びたことで物資の補給が困難となり、将兵の間には厭戦気分が蔓延していた。
 そうした互いの事情から講和が結ばれるのだが、当事者であるはずの朝鮮国は蚊帳の外というおかしな構図であった。
 これは日本軍が上陸してから僅か20日で朝鮮国王を都からを追い出し、以来転々と逃亡し続けたるなかでの更なる辱めであったに違いない。
 それもこれも両班体制の名の下で貴族階級が富と名声を独占し、さらに世襲し続けた結果がやがて国への信任を失墜させ、人心を乖離させてしまったことに気づかねばならない。
 1592年4月12日に一番体の小西行長が釜山に上陸したのを最初に、15万の将兵は先を争い王のいる漢城へと迫るのであるが、途中において朝鮮側の抵抗らしいものはほとんどなかったと伝えられる。
 むしろ戦う前に逃げ出し、中には投降する者も多かったらしい。
 圧政に虐げられ続けた民衆は日本軍に協力し道案内をしたり、或いは役所や貴族階級の屋敷を躊躇いもなく襲い略奪の限りを尽くした。
 漢城とて例外でなく、日本軍が入った時にはすでに財宝など待ち去られた後であった。
 さらに潜伏中の王子を加藤清正に差し出したのは、朝鮮国の官僚というのは哀れむべき事実である。

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 私は以前に兵站地として国内に築かれた肥前名護屋城跡の文化財保護をしていた。
 その関係で韓国にもそれらの痕跡を訪ね、地図を片手に今は公園となってしまった敷地を、倭城と呼ばれる石垣を捜して回るなどした記憶がある。
 だがそれらしきものを発見するのは実に難しかった。
 そしてようやく見つけたのが花壇に横一列に積まれた側石で、そこには案内板すら見当たらず困惑した思いがある。
 しばらくしてこうした史跡の保存が日本の研究者側から問題とされた。
 きっかけになったのが倭城の残る土地での開発計画で、消滅してしまう危機に曝されたからである。
 もちろん韓国の研究者も危惧は覚えたらしいが、大きな保存運動まで至らなかったように聞き及んでいる。
 そのくせ最近になり自国の手で造ったはずの李舜臣の銅像に、難癖をつけ始めているのには失笑せざるを得ない。
 舜臣はあの戦で活躍した朝鮮水軍の将で、連戦連敗するなかで唯一の希望として果敢に前線に立ち続け、そして斃れたいわば英雄である。
 その全身を甲冑で身を包み、大きな刀を片手に遥か遠くを睨む勇士は、銅像として韓国内の至るところに見かけることができる。
 それが物議をかもしていると言うのだ。
 あの刀はどうも日本刀のようであると、不自然さより不快な感情を与えているようである。
 そればかりでなく甲冑は中国式のものだと言い、どこをとってもオリジナリティーがないことにヒステリックな反応しているとしか思えない。

 「歴史を忘れた民族に未来はない」の言葉を今一度思い起こしてもらいたい。
 ここであえて問おう。
 歴史の中に埋もれている本質を捉えようとはせず、体面ばかり気にする民族にこそ未来はあるのだろうか。
 私は政治家でもなければ思想家でもない。
 ただ歴史に携わるのを生業にしており、だからこそイデオロギーやこれについての善悪、はたまた宗教や個人的な感情など一切を慎み、過去に起こった事象を客観的に分析するのを心掛けている。
 何故なら歴史とは人類が正しく歩むべき道を指し示してくれる羅針盤であるからこそ、そこに不純な概念を持ち込み妙な化学反応を起こさせてはならないからである。
 ところで400年前に起こった東アジアの歴史が、果たして〝乱〟なのか〝役〟だったか、この一文字の違いにも日韓の歴史的背景が如実に現れているような気がしてならない。
 乱とは中国を宗主国とした広いアジア地域内での内乱を指し、役は日本国内における内紛のようにも印象づけられる。
 乱も役もいずれも本質的な表現とは言えず、これは国と国との間で行われた戦争であったはずである。
 些細なことかも知れないが隣国の横暴な振舞いをただ咎めるだけではなく、自国の歴史にもきちんと向き合い再認識しておかねばならない。
 無知なる歴史を声高々に振りかざしては、自身の品格を貶めるような同じ轍を踏まぬために。
 そして何よりも発展的な未来を語り合えるために。
2014.07.11 指に棘
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    ならぬ実に 悪茄子呼ばい 指に棘

茄子とはいうが食用となる実はつかない。
そして逞しい生命力でそこらじゅに繁殖する。
特定外来種で、決して歓迎されるべき存在ではない。
いわゆる植物界のブラックバスのようなもの。
それ故に引っこ抜こうとするものならば、茎から鋭くのびた棘で指先をチクリと刺すからまた厄介。
そんな悪茄子(ワルナス)とは、愚れて不良になってしまった子供のようにも聞こえる。
2014.07.07 藍と染めにし
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    紫陽花や 藍と染めにし 雨模様

 ひと雨ごとに濃さを一段と増す紫陽花。
 観賞用に品種改良が繰り返され、その種類は多くいずれも個性的である。
 名前も最近のものではスターマインなど、闇を艶やかに飾る花火を連想させる姿もある。

 “あめ雨降れ降れもっと降れ”と紫陽花は唄う。
 そして“私のいい人連れてこい”と唄い続ける。
 それとも蛇の目傘を手片に、母親を迎えに行くのも郷愁がある。
 とにかく“ぴっちぴっち、ちゃっぷちゃっぷ、らんらんらん”なのだ。
 雨の日もまた楽しきかな。

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2014.07.04 誰そ待つ


    夜ひらく 白粉花や 誰そ待つ


 昼間はタオルを絞るように先をきつく閉じていたのが、夕闇が迫るにつれ緩み開き始める花がある。
 白や黄色、それに艶やかな紫の小さな花々が、夏直前の心地よい風に靡き戯れる。
 さても夜にひらく白粉花とは意味ありげなと気になり、さっそく調べてみれば種子に粉状の胚乳があることから名付けられたとある。
 植物に造形の深い知人に訊ねれば、子供の頃顔に塗り遊んだものだと話してくれた。
 さらに遅い時間に開くことで夕化粧とも言うらしく、それにしてもつい妖艶な女性に由来を想像してしまうのは助平だからなのであろうか。






 “火事と喧嘩は江戸の花”という言葉に、誰しも聞き覚えがあるはずだ。
 時代劇が大好きという方なら、北島三郎を頭とした“め組”の纏を高々と掲げた町火消しの粋な姿が即にでも浮かぶことだろう。
 実際に江戸の街は火事をはじめ常に風水害に悩まされ続けた都市であった。
 その中でも明暦三年(1657)の大火は、江戸市中のほぼ全域をのみ尽くし、焼死者は十万人に及んだと伝えられる。

 以前に発掘調査をした港区芝田町五丁目町屋跡遺跡にも、そうした被災状況を物語る痕跡が多々認められたのを思い出す。
 例えば掘り下げた土層断面を観察すると、被熱作用により赤く焼けた層が幾重にも存在する。
 もちろん炭化した木片も集中している。
 こうした層が深さ2メートル下まで確認され、焼け跡を整地する度に嵩上され新たに生活面を形成してきたことが理解できる。
 発掘はこうした数次の生活面を、上層から一枚づつめくるように掘削するのである。
 当然、掘り下げるにしたがい時期は古くなる。

 さて、この遺跡の性格を簡単に紹介しておくと、古地図上では旧東海道に面した位置にあり、町屋が形成されていたことが分かる。
 特に興味深いのは街道筋に面した側には土蔵跡が見られ、大店を構えた富裕層の居住空間であることが推測される。
 その裏側には、長屋が軒を連なれ、庶民層の空間が広がる。
 長屋跡の路地には木樋の排水溝と、その奥には井戸やゴミ捨場が設けられている。
 そして幾つものゴミ穴が掘っては埋められ、中からは古伊万里や古瀬戸をはじめとした多量の陶磁器片や、サザエやハマグリの殻、獣骨や魚骨など食べかすがまとまって出土する。
 まさに江戸は一大消費地として、全国津々浦々からあらゆる物資がもたらされていたことを証明するかのようである。

 それは江戸から東京へと150年の時間を経た現代社会でも、ゴミ問題や災害への危機感は同じ悩みの種となっている。
 隙間のないほどの遺構の密集度にも、21世紀を生きる我々とさほど変わらぬ息苦しい住環境に生きた先人を思うと、同情にも似た親近感すら覚えてしまう。

幕末面の調査風景_convert_20140629144621


 しかし、災害の度に見事に街を復興させていく逞しさには、大いに見習うべきものがある。明暦の大火は開府以来の中世的都市を一掃し、代わって都市計画に基づいた新たな近世都市を出現させることになった。新生の高らかな槌音は地方からも多くの人々を招き寄せ、江戸は一気にその市街地を広げることになる。
 そして次に迎える元禄期には町人の豊かな経済力を背景とした、浮世絵や歌舞伎や浄瑠璃など市井の文化の華を開かせ今日に至るのである。
 
 都市として東京の姿は常に変化し続ける。
 6年後には東京オリンピックも控え、勢いはさらに加速してゆく。
 そうした未来志向の世相とまるで逆行するように、私は来月から江戸時代の遺跡を掘ることになる。
 そこに埋れているタイムカプセルを開けることにしよう。
 過去と現代を、さらに未来へと遥かな時間軸を紡ぎに、朝の混雑する通勤電車に押し合い圧し合い揺られ、いにしえの江戸の町に、いざトリップ トリップ。
 
 






   宵の闇 ホタルブクロを 覗きいる

  花袋 片手提げにて 傾ぐ顔

  螢狩り 花に囲いて 夕涼み

  夕闇に 花も焦がしぬ 螢火よ



 ホタルブクロの花が木陰で気持ち良さそうに揺れる。
 その姿形から別名を釣鐘草とも言い、可愛らしい花がぶら下がるようにして咲く。
 それにしてもホタルブクロとは気になる名前で、調べてみるとこの花の中に蛍を入れて楽しんだことに由来はするようだ。
 何とも風情ある遊びであろうか。
 薄紫の花を透かして灯る蛍の光を思うと、いつの日か試してみたくもある。
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