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 それぞれの土地には、それぞれ独特の空気感なるものが存在する。
 それは地理的な制約に根ざしたものであったり、或いは気候的な特色、歴史的
背景が長い歳月の中で醸造され、個性ある地方文化として育まれてきたもののよ
うな気がする。
 だから旅先でそうしたものを、思わず見つけた時の嬉しさは長く忘れられない。

 ところで、私の好きな民俗学者に宮本常一がいる。
 彼はそうしたものを見つける天才であった。
 例えば初めて訪れた土地があれば、まず小高い丘に登り、町の風景を眺めること
で、そこがどのような土地なのかを肌で感じとるのを習慣としていた。
 私にはそうした特別な嗅覚は、残念ながら備わってない。
 だが、実際にこの目で見て、面白いなと感じる風景はある。

 そこで今回はマチの色について、少し紹介してみたい。
 日本酒で有名な東広島。いや前の地名で呼んだ方が分かりやすいだろうから、西
条を訪れると立派な家が多いのが目につく。それらはいずれも赤瓦の屋根で、田んぼ
の中に出城のようにポツンポツンと浮かぶ風景には驚かされる。
 何でもここは広島県内でも雪の多い地域ということで、放熱効率の高い赤瓦が選ば
れると聞いた。
 それなら黒瓦の方が良いのではと私は思うのだが、地元の方がそう言うのなら仕方
ない。

赤い屋根_convert_20130611105038


 西隣の山口県にも独特な色へのこだわりがあるようで、わざわざガードレールが黄色
く塗られている。
 こちらはヒマワリの黄色をイメージしてのようである。
 何故ヒマワリかは調査不足なのでまたの機会として、全国的には白が普通なのに車を
走らせているとどうも違和感を感じて、こちらも仕方ないのである。

黄色いガードレール_convert_20130611102316

 つまりは仕方ないことでも、こうやって眺めてみると案外に面白いものなのである。
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 前回の春分の日の話は随分と硬い内容になってしまったので、ここは軟らかなバージョンも書いておかねばと思い直し、彼岸との関連性についても少し紹介してみたいのであります。
 
 さて、「暑さ寒さも彼岸まで」とはよく言ったもので、桜前線が話題となるのもこの辺りからではないでしょうか。
 しかし今年の開花宣言は「寝耳に水」とはこのことで、例年よりも早く、そしていきなりで心の準備もままならぬまま近くの城跡に出かけてみたしだいです。
 ですが、まだかまだかと待ち焦がれる間合いなるものがなければ、なんだか楽しみは半減してしまいそうで損をした気分でした。
 まあ、つべこべ言っても咲いたものは仕方ないのですが、やはりこの季節は清々しく良いものなのです。

 ところで春分の日は彼岸の日でもあります。
 それぞれの家では墓参りなどして、先祖の供養をすることになります。
 彼岸は春分の日である中日をはさみ、彼岸の入りの前3日間と彼岸の明けの後3日間で、合わせて7日間を指します。
 太陽がほぼ真東から昇り真西へ沈んでいくという同じ軌道を通る秋分も同じことで、7日間がこうして法会にあてられることになるのです。

 その彼岸の語源ですが、仏教でいうところの“波羅密多”を、古代中国では“到彼岸”と訳すことに由来するそうです。
 つまり私達の住む煩悩の世界を“此岸”とするなら、極楽浄土のあの世が“彼岸”となる訳です。
 このことから彼岸はあの世の祖先を思い、墓参りをすることになるのですね。

 それがちょうどこの春分のこの時期に、仏教の彼岸会という行事が催されていたことから、天文学的事象と宗教的行事が重なり、やがて定着していったものと考えられてます。
 なお、最初の彼岸会は806年に、平城天皇が霊を鎮めるために行ったという記録が残されています。
 さらに仏教では涅槃の世界は西方にあると信じられていたこともあり、法然や親鸞などが唱えた浄土思想が盛んになると、春分と彼岸の結びつきはより強くなっていったものと考えられます。

 ここで彼岸になくてはならない供物があります。
 それは“ぼた餅”です。
 あの餡でもち米を、厚く包んだぼた餅です。
 甘党の人には嬉しい日ですよね。

 そのぼた餅は牡丹の花が咲く時期食すのでこうした名前が付けられたと言われてます。
 では、秋分はと言えば、萩の花の時期ですからおはぎとなります。
 ともに餡が用いられるといえあれていますが、その餡も春分がこし餡で、秋分は粒餡らしいのです。
 つまり収穫したての小豆は皮がやわらかいので粒のままでも大丈夫ですが、年を越したものはこし餡にしなければ硬くて食べれないからそうです。

 理に叶ったような話ですが、地方によってはまた異なる風習もあるように思われます。
 何故なら私は粒餡であろうがこし餡であろうが、餡に包まれたものはぼた餅で、きな粉をまぶしたものがおはぎだと教えられてきたからです。
 それに春分と秋分でぼた餅とおはぎと呼び分けることも、つい最近になり知りました。
 また私の故郷である鹿児島では、米粉から作った団子に餡をかけたものを供えます。
 他にもいなり寿司の地方もあるらしいのです。

 ともあれ現代では加工技術も進み、小豆の皮の硬さなど気にするところではないでしょうが、こうした話を聞くと先人の生活の知恵なるもに触れられたようで楽しいものです。
 ちなみに「棚からぼた餅」という諺は、いかに小豆が贅沢品であったかが窺い知れます。
 大豆が原料のきな粉では、「棚からおはぎ」では、あまり有難味が伝わってきませんよね。

 最後に軟らかな話をもうひとつ。
 ぼた餅の語源は、サンスクリット語でbhukta(飯)とmirdu(軟らかい)にあるらしく、どう発音したらよいやら分からないので何とも言えませんが・・・
 それでもなんとか無理して読んでみると、“ブッタムーデュが“ブタムーチュ”、そして“ボタモーチ”と聞こえてきそうではありませんか。
 ねっ!


  
 
  

  
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 “ケンカ大六”なる人物をご存じであろうか。
 考古学の世界では知る人ぞ知るのだが、たぶん若い研究者にはピンとこないだろう。
 かく言う私も面識はない。
 されど彼を知る人から話を聞くと、とても気難しく近寄りがたい、孤高のイメージしか伝わってこない。

 何故にこういう話をするかというと、今日は春分の日である。
 その春分を簡単に説明すれば、ほぼ昼と夜の長さがほぼ同じとなる。
 そしてこちらもほぼ東から登った太陽がほぼ西へと沈む日なのだ。
 故に農耕民族にとって春分の日とは、作物を育てる目安として大切な節目といえる。

 冬の長い眠りからようやく醒め、そろそろ作付けをしても大丈夫だと保証してくれるのが春分の日なのである。
 この日を境にに昼は徐々に長くなり、夜と逆転する。
 すると植物は芽ぶき、動物は新たな生命を宿す。
 太陽のよみがえりは、本格的な春の訪れを告げる。
 つまり再生という意識がその根底にはあるのだ。
 
 さて、ケンカ大六であるが、本名は原田大六という。
 大正六年に生まれたということで、大六と命名されたらしい。
 福岡県は西部の糸島郡前原町(糸島市)に生まれ、少年時代より土器など太古の遺物に大変な興味を持っていた。
 成人してからもその思いは冷めることなく、ますますと考古学に傾倒していくばかりであった。
 大六の生まれ育った糸島平野は『魏志倭人伝』にも登場する百余国のひとつで、伊都国に比定されるクニが存在した地域でもある。
 当然にそうした遺跡は身近に存在し、この環境の中で遥かいにしえへの夢を紡いでいたに違いない。
 だが、彼には学問を続けるにあたり、正統な後押しというものがなかった。
 つまり地元の中学を卒業しただけで、後は独学で学問を続けてきたのだ。
 だからなのか大学というアカデミズムに対しては、異常と思えるほどの攻撃的な論調をはる。
 例えば著書『万葉革命』の序文では「真理を愛する若い全国の学生諸君に訴える。骸骨がネクタイを締め、背広を着て、教壇に立ち、骸骨万葉学の講義を行い、学生諸君を骸骨化しようとしている」と皮肉るほどだ。

 どうも大六の話が長くなってしまったが、春分について話を戻すことにする。
 1965年に彼の発掘した平原遺跡の成果は、後に大きな問題を提議することになる。
 確認された2世紀後半の割竹形木棺と、その周囲右辺からは37面の銅鏡が出土している。
 その内の5面は直径が50cm弱の大鏡で、国内最大の規格なのである。
 木棺長軸の先には2本の対になる柱(鳥居的なものを想定)を立てたと考えられる穴があり、その更に遠い延長上には日向峠と高祖山を望む。
 遺跡に立つと峠と山が重なり合う箇所は谷間に見え、春分と秋分になると太陽は、必ずこの中心を通ることになる。
 これは暦のなかった弥生時代において、季節を正確に把握する目安となり、経済基盤である稲作の出来具合を左右する重要な役割を果たすことになる。

 大六はこうしたことを想像たくましく、そして実証しようと多くの論文を書いた。
 平原遺跡の被葬者は太陽に深く関連した人物で、『記紀』に登場する神々にまで結びつけようとしたのである。
 当時の学界は戦時の反省から皇国史が排除され、唯物史観が主流を占めていたこともあり、大六の学説は黙殺され続けた。
 それに在野の研究者に対する壁は余りに厚く、そして超えるには高すぎた。
 こうなると彼はますます吼える。
 そして噛みつくしかない。
 相手が高名な大学教授であろうが、真っ向から論調をはり続ける。
 いや、学府の権威者であるからこそ、学問に対して必要以上に真摯な姿勢を望んでいたのかも知れない。
 そして持論は邪馬台国九州説にたどり着く・・・。

 平原遺跡と春分の関連性については、まだまだ多くの実証を要することになるが、ただ弥生人にとっても太陽の運行は大切な行事として意識されていたのは間違いない。
 こうして今日まで受け継がれてきた深層的な意識は、形を変えながらも身近な年中行事として私達の生活にしっかりと根付き、将来においても引き継いでいくべき、民族のかけがえない民俗文化であり考古資料なのである。



 
 3月3日といえば言わずと知れた、女の子の成長を願い祝う雛祭りの日です。この祭りの由来は人形が子供の身代わりになって、災いから逃れられるようにということで始まったと言われてます。原型は室町時代にみられる紙で作った人形を使い、人の体になでつけ穢れを移したものを川に流す流し雛の風習にあると考えられています。それとひいな遊び(人形遊び)が結びつき、貴族社会で人形を飾り祀る行事となり定着したのです。
 しかし人形なるものは古代の遺跡からもよく出土するもので、平城京跡の溝からは木製の板を人の形に削った遺物があります。或いは素焼きの土器に人の顔を描いたものも、溝の底の方に捨てられたように見つかることから、身代わりとなるものを捨て去る行為の精神的なものは古くから存在していたのかも知れません。

 ところで今回はそうした人形のことについて書くつもりではなく、桃の節句なる“桃”について少し考えてもみたいのです。この季節に周りを見渡せば、桃よりどちらかと言えば梅の花が目に着きます。万葉人にとっても梅は愛でる対象であり、現在の桜よりも好まれていたようです。
 かの菅原道真も「東風吹かば匂い起こせよ梅の花・・・」と詠んだ、有名な和歌があるぐらいです。それがどうして桃なのかと、随分と前から気になっていました。
 それがトイレ跡である素掘りの便槽を発掘していて、ふと或ることに気づいたのです。そこは深い深いトイレの底の方で、直径が1m、深さも2m以上はあろうかという円筒形の便槽でした。そして私の頭上にはまん丸く切り取られた青空しか見えず、身動きもままならぬ狭さの薄暗い中で目を凝らし、足元の堆積物を掘り下げていました.
すると桃の種がよく見つかるのです。それに瓜の種もまとまって確認されます。余談ながら臭いはあまり気にはなりませんでした。なにしろ400年前のトイレでしたから・・・。

 それから弥生時代の井戸を掘る機会もありました。見た目は便槽とさして変わりはないのですが、相変わらず深い底に潜り込み、手さぐりで遺物を探す作業をしました。するとやはり桃やら瓜の種が不思議と見つかるのです。そこでトイレと井戸の共通点とはしばし首をかしげていましたが、案外にも答えは単純なものでした。
 それは穴なのです。穴は民俗事例では異界へ通じるものと信じられ、それが深ければ深いほど祭祀の対象とされるようです。
 少しばかり前ですが「トイレの神様」という歌がヒットしたのは記憶に新しいかと思います。そうなのです、日本の神様はあらゆる所にいて、普段の私達の暮らしを見守ってくれているのです。井戸には水の神様が、竈には火の神様がいて、何かの時につけ祭祀の対象として崇められてきたのです。ですのでトイレにも当然に神様はいるのです。
そうした神様の供物として、桃や瓜があったのではないでしょうか。トイレ後からよく見つかる瓜については、種ごと食べたものが消化されず排泄されたからだと考える研究者もいます。
しかし私はそうは思えません。なぜなら種はバラバラではなく、一塊りになって発見されるからです。おそらく瓜をそのまま投げ込んだものが、果肉部分が腐食して種だけが残ったと推察できるからです。
ちなみに桃についても同様で、種までも丸ごと食べたからとはとうてい考えられません。

そこで桃の霊力について触れておかねばなりません。国内で現存する最も古い史料に『古事記』がありますが、この中に桃は不思議な力を持った食物として とうじょうします。
それは国生みの神であるイザナミが黄泉の国へ行き、妻のイザナキの醜い姿を覗き見たことに始まります。怒ったイザナキは醜女を使わし、イザナミを捕らえようとしますが、逃げ帰る途中において桃を投げてようやく難を逃れることができました。
誰もがよく知る桃太郎も、桃から産まれ鬼退治をします。つまり桃には邪気を払う力があると信じられ、こうしたことからトイレや井戸のような異界に通じる場に投げ込まれたと考えられないでしょうか。それは瓜もそうで、現代でも橋などを架ける際には胡瓜を供える話をよく聞きます。そして胡瓜は河童の好物でもあり、無事に工事が進められることを水にまつまる異形の神にお願いしているのではないでしょうか。

さて、桃の節句に話を戻しますれば、桃が女の子の健やかな成長を願うためには必要なアイテムであったということは理解できたのではないでしょうか。こうした桃を神聖視する思想は古代中国においてみられるもので、別名では仙果とも呼ばれていることでも窺い知れるでしょう。
その一方で女性の尻に形が似ることからも、妖艶なイメージとして表現されることもあります。「桃尻」の言葉がそうです。そう言えば随分と前にですが、日活ロマンポルノで『桃尻娘』シリーズが人気をはくした時代もあったような・・・^_^


 今年の福を呼び込む方角は南南東だそうだ。
 
 しかしこれほど恵方巻文化が日本の隅々まで、しかも短期間で浸透するとは誰が予測し得たであろうか。
 これまで節分の日には、豆まきするのがあたりまえであった。
 それが丸々一本太巻を、その年の定められたある方角を向き、食べ終わるまで一言も喋らず黙々と食べる行為となるとやはり奇妙である。
 いやそれ以上に滑稽である。
 想像してみるがいい。
 お爺ちゃんお婆ちゃんから、お父さんお母さん、それにその子供ら一家全員が、16分割に細かく指定された方角を寸分違えず向き、両手でおごそかに太巻を抱えモグモグと懸命に頬張る姿を・・・
 ところでこうした風習は元々関西圏にあったのだが、ここ数年ほどで全国的に浸透しつつある。

 そういえばつい先日のことであった。
 昼食をとる時間がなく車を走らせていた時に、途中のスーパーに立ち寄り惣菜コーナーに並んでいる巻ずしを手にした。
 これならば片手で食べながら、運転できると思ってのことである。
 さっそく中から取り出し、ひと掴みするとこれが一本の長いままなのだ。
 「まったく、切り忘れて」などと面倒に思いつつも、お腹が空いていたので、何も考えず食べにくいのを無理しながら口に放り込み先を急いだ。
 今思えば、あれは恵方巻として売っていたものであったのだ。

 ところで恵方巻なるものを初めて知ったのは、もう十数年ほど前になるであろうか。
 あるテレビのバラエティー番組で、関西出身の女優が恵方巻のことを熱く語っていたことがあった。
 それを見た時には冗談なのだろうと、素直に信じられずにいたのだが。
 さて、こうした風習についての起源は、今ここで小難しいことをゴチャゴチャ述べるより、ちゃんとした資料がありそうなのであえて触れないでおく。
 
 しかし、これほどまで全国的に普及してしまった背景については、私見をまじえ少しばかり考察しておかねばならない。
 さて、この節分の後に間もなくやってくるバレンタインである。
 これについてはもはや周知の事実であるが、菓子業界の意図が少なからずも介在していた。
 それと同じく恵方巻にも“日本太巻普及協会”の陰謀説を、どうしても考えずにはいられないのである。
 
 えっ、そんな団体など聞いたことない・・・
 となれば怪しいのはコンビニである。
 これほどまで普遍的に、かつ急速に浸透させるには、やはり飽和状態に店舗数を増やし続けるコンビニ文化を無視することはできない。
 それが節分と言うごく限られた期間において、日頃は目立たず控え目な巻ずしが花形として注目を浴び、ここぞとばかりに売り上げに大きく貢献できる機会となれば、こうした経済効果に便乗しない手はないはずだ。
 それがコンビニという全国展開するチェーン店において、ある一定の成果があげられるとなれば、あとはその地域のスーパーも真似して拡散するのはもはや時間の問題と言ってもよいだろう。
 こうして恵方巻は、新たな食文化的行事として市民権を得てきたと推察される。
 そんなどうでもいいようなことを真剣に考えてみるのも、民俗学が人の生活と共に変化し続けている証に他ならないからである。
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暖簾の向こうにはは寿司屋のカウンターが並び、その奥で鮨を握る職人の姿があった


 日本三大チャンポンといえば何処なのか・・・。別に“割り切れない話”の続きをするつもりはないが、ここでも数に対する観念性というものがある。さて、本題のチャンポンについて話を戻すと、まず“長崎”はすぐに頭に浮かぶだろうが、後のふたつについては考え込んでしまう。ちなみに答えは“天草”と“小浜”なのであるが、地理的には長崎市を核とし、点状に食文化圏は形成されている。などと庶民に親しまれてきた料理を、小難しく論じてみても味気ないのだが、今回は雲仙市の小浜界隈のチャンポンにまつわる食の民俗学的発見の報告である。
 小浜は長崎県島原半島の西部に位置し、2005年に5つの町が合併してできた雲仙市内にある。ここは良質で豊富な湯量を誇る温泉が有名で、温泉街のあちこちから白い湯煙が湧き出ている。では、何故にチャンポンかというと、実はこの温泉と深い関わりがあるのだ。
 ここで少しウンチクである。そもそもチャンポンの発祥は長崎市内にある中華街で、明治期に“四海楼”で出されていた賄い料理が評判となり定番料理となったものだ。そうした流行りの味が、長崎市内から蒸気船に乗り訪れる湯治客によってもたらさという。大正期にはすっかり根付き、それから100年後の現代においては独自の発展を遂げてきたのだ。
 ここで衝撃的な事実を発見てしまった。それは、ここ小浜ではチャンポンは中華料理店ではなく、寿司屋で出されることを・・・。そしてチャンポンセットには餃子ではなく、鮨が堂々と添えられていたのだ。この微妙な取り合わせに戸惑いつつも、交互に食してみればあっさりしたスープに特に合わなくもないことが理解できたのである。
 今回の事例についてこうした現象を、食文化を通して民俗学的に考察すると以下のように結論づけることができる。「既成の価値観にとらわれず、新たな創造の下に食の文化は豊かを遂げていく」
 しかしながら今どきの若者らの、何でもコラボレーションしてしまう味覚には未だに理解が追いつけない。例えばお茶漬けかわりにご飯にコーラをドバドバとか、生クーリームのドレッシングサラダ等々、聞いただけでも体は拒絶反応を起こしてしまいそうだ。


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タコ、イカ、エビ、鰺、ハマチの並んだチャンポンセット これで1080円でした


おまけ

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小浜温泉でオバマ大統領に出会った

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海のみえる温泉はしょっぱい

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スーパーで買ってきた卵と野菜を勝手に蒸せる

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南瓜とジャガイモの蒸しあがり・・・30分待った

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梅雨の中休みに出会えた夕陽

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そしていつまでも眺めていた
 ようやく晴れ間がのぞいたかと思えば、いきなり大粒の雨が叩きつける。まるで猫の眼のような目まぐるしさの連日である。梅雨だからしかたないのだろうが、これでは全く仕事にならない。「考古学者を殺すには刃物はいらぬ、三日雨がふればいい」とその昔誰かがいってたが、死ぬまではないにしろ気を揉むことが多い。気分転換に休日は釣りでもと計画すれば、釣りざおを手にドアを出た途端にパラパラと雨が落ち始める。
 まったく・・・、ならば温泉にでも行こうと近くの嬉野温泉まで足を延ばすことにした。ここは日本三大美肌の湯として有名で、ぬめりとした湯肌がとても心地よい。後の二つは島根の斐乃上温泉と、栃木の喜連川温泉であるらしいが、三大とか奇数でくくる表現が多いように思われる。そこで湯船につかり他に何があるか考えてみた。
 景勝地では“富士五湖”、“阿蘇五岳”。セリ・ナズナ・ゴギョウ・ハコベラ・ホトケノザ・スズナ・スズシロとくれば“春の七草”である。五目御飯なら、具がいっぱい入っているという意味がある。似たような表現では千葉の九十九里浜、長崎の九十九島もそうだ。 
 人生の節目としても冠婚葬祭では“初七日”、“四十九日”。その後も“一周忌”、“三回忌”、“七回忌”、“十三回忌”、“十七回忌”、“二十三回忌”と、どこまでも割り切れない数字が続く。通過儀礼でも産まれてから名前がつくまでの“お七夜”、幼児期の“七五三”などなどあげれば枚挙がない。もちろん二十歳の“成人式”や六十歳を向かえてからの“還暦”もあるが、やはり奇数の方が圧倒的に多いような気がする。
 しかしどうしてこうも奇数が好まれるのだろうか。そこには日本人が数に抱く、独特の観念が垣間見られる。その納得できそうな答えが見つかりそうにないままに、体は美顔を通り越しふやけていくのである。

嬉野温泉「元湯温泉」 佐賀県嬉野市
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