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 「歴史を忘れた民族に未来はない」
 このような意味の横断幕がハングルで大きく掲げられたのは、2013年7月28日に韓国で行われたサッカーの東アジア杯決勝での出来事であった。
 試合は2 対1 で日本チームが優勝したものの、実に後味の悪いものとなった。

 そして今月初めのこと、中国の習近平国家主席が韓国を訪問し、朴槿恵大統領 と両国の発展的な未来について会談した。
 その互いに満面の笑みで握手を交わす姿は、新たな東アジア史を予感させる印象を内外に広く伝えることになった。
 国同士が友好を育むのは決して悪いことではない。
 しかし互いの腹の中は複雑なはずである。
 特に朝鮮民族にすれば、宗主国の名のもと中国から支配され続けてきた屈辱の歴史があるからに他ならないからだ。

 確かに我が国日本も、西欧諸国に追いつけと急速に近代的文化を推し進めるなかで朝鮮国を併合した。
 他国を侵略することはどんな理由があろうと許されることではない。
 しかしあの時に無理にでも大陸に兵を出していなければ、勢いづいたロシアは南下して朝鮮半島に社会主義国家を誕生させたはずである。
 そしてその余波は日本にも及ぶ危険性すらあった。
 こうした意見は資本主義側の都合よい勝手な言い分かも知れない。
 それでもこれまで西欧諸国がやってきた植民地政策と、日本の統治方法は全く異なっていた。
 つまり一方的に搾取するのではなく、立ち遅れていた学校や鉄道などインフラの整備事業も積極的に行ったのも事実であった。
 歴史は忘れてはならない。
 栄光の歴史があれば、屈辱の歴史もある。
 それら紡がれてきた全てが歴史であり、民族のいや人類の誇りと戒めにするべきものだと信じている。

 話をはじめに戻そう。
 あの習主席は韓国訪問中にソウル大学で、学生を前に特別に講演を行った。
 ここで壬辰・丁酉倭乱のことを持ちだした。
 これを日本では文禄・慶長の役と呼んでいる。
 国内を統一した豊臣秀吉の次なる野望は大陸への進出であった。
 ひとりの驕り高ぶった老害の独裁者は、両国の多くの人々を悲劇に巻き込んだのでしまった。
 習主席は話を続ける。
 朝鮮半島全土が日本の将兵に席巻され尽くした時に、これに援軍を指し向け退けたのが当時の明国であると・・・。
 こうして両国が協力し共通の敵に対したことから、今の反日感情は長い時間をかけ共有されてきた堅いものだと韓国のニュース結ぶ。
 だが事実は都合よく歪曲されていることに気づかねばならない。
 明国の目的は国境付近まで迫った日本軍への危機感からであり、朝鮮に対しての義など見出すのは難しい。
 このまま侵略を許せば、大国としての沽券にも係わる。
 それにちょうど王朝の勢いにも翳りが見え始めた時期も重なり、水際でくい止めたい思いとまさに内憂外患の状態に、援軍はよこしたはいいが常に消極的な戦いに終始せざるを得なかった。
 日本軍とて戦が長期化し戦線が長く延びたことで物資の補給が困難となり、将兵の間には厭戦気分が蔓延していた。
 そうした互いの事情から講和が結ばれるのだが、当事者であるはずの朝鮮国は蚊帳の外というおかしな構図であった。
 これは日本軍が上陸してから僅か20日で朝鮮国王を都からを追い出し、以来転々と逃亡し続けたるなかでの更なる辱めであったに違いない。
 それもこれも両班体制の名の下で貴族階級が富と名声を独占し、さらに世襲し続けた結果がやがて国への信任を失墜させ、人心を乖離させてしまったことに気づかねばならない。
 1592年4月12日に一番体の小西行長が釜山に上陸したのを最初に、15万の将兵は先を争い王のいる漢城へと迫るのであるが、途中において朝鮮側の抵抗らしいものはほとんどなかったと伝えられる。
 むしろ戦う前に逃げ出し、中には投降する者も多かったらしい。
 圧政に虐げられ続けた民衆は日本軍に協力し道案内をしたり、或いは役所や貴族階級の屋敷を躊躇いもなく襲い略奪の限りを尽くした。
 漢城とて例外でなく、日本軍が入った時にはすでに財宝など待ち去られた後であった。
 さらに潜伏中の王子を加藤清正に差し出したのは、朝鮮国の官僚というのは哀れむべき事実である。

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 私は以前に兵站地として国内に築かれた肥前名護屋城跡の文化財保護をしていた。
 その関係で韓国にもそれらの痕跡を訪ね、地図を片手に今は公園となってしまった敷地を、倭城と呼ばれる石垣を捜して回るなどした記憶がある。
 だがそれらしきものを発見するのは実に難しかった。
 そしてようやく見つけたのが花壇に横一列に積まれた側石で、そこには案内板すら見当たらず困惑した思いがある。
 しばらくしてこうした史跡の保存が日本の研究者側から問題とされた。
 きっかけになったのが倭城の残る土地での開発計画で、消滅してしまう危機に曝されたからである。
 もちろん韓国の研究者も危惧は覚えたらしいが、大きな保存運動まで至らなかったように聞き及んでいる。
 そのくせ最近になり自国の手で造ったはずの李舜臣の銅像に、難癖をつけ始めているのには失笑せざるを得ない。
 舜臣はあの戦で活躍した朝鮮水軍の将で、連戦連敗するなかで唯一の希望として果敢に前線に立ち続け、そして斃れたいわば英雄である。
 その全身を甲冑で身を包み、大きな刀を片手に遥か遠くを睨む勇士は、銅像として韓国内の至るところに見かけることができる。
 それが物議をかもしていると言うのだ。
 あの刀はどうも日本刀のようであると、不自然さより不快な感情を与えているようである。
 そればかりでなく甲冑は中国式のものだと言い、どこをとってもオリジナリティーがないことにヒステリックな反応しているとしか思えない。

 「歴史を忘れた民族に未来はない」の言葉を今一度思い起こしてもらいたい。
 ここであえて問おう。
 歴史の中に埋もれている本質を捉えようとはせず、体面ばかり気にする民族にこそ未来はあるのだろうか。
 私は政治家でもなければ思想家でもない。
 ただ歴史に携わるのを生業にしており、だからこそイデオロギーやこれについての善悪、はたまた宗教や個人的な感情など一切を慎み、過去に起こった事象を客観的に分析するのを心掛けている。
 何故なら歴史とは人類が正しく歩むべき道を指し示してくれる羅針盤であるからこそ、そこに不純な概念を持ち込み妙な化学反応を起こさせてはならないからである。
 ところで400年前に起こった東アジアの歴史が、果たして〝乱〟なのか〝役〟だったか、この一文字の違いにも日韓の歴史的背景が如実に現れているような気がしてならない。
 乱とは中国を宗主国とした広いアジア地域内での内乱を指し、役は日本国内における内紛のようにも印象づけられる。
 乱も役もいずれも本質的な表現とは言えず、これは国と国との間で行われた戦争であったはずである。
 些細なことかも知れないが隣国の横暴な振舞いをただ咎めるだけではなく、自国の歴史にもきちんと向き合い再認識しておかねばならない。
 無知なる歴史を声高々に振りかざしては、自身の品格を貶めるような同じ轍を踏まぬために。
 そして何よりも発展的な未来を語り合えるために。
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 “火事と喧嘩は江戸の花”という言葉に、誰しも聞き覚えがあるはずだ。
 時代劇が大好きという方なら、北島三郎を頭とした“め組”の纏を高々と掲げた町火消しの粋な姿が即にでも浮かぶことだろう。
 実際に江戸の街は火事をはじめ常に風水害に悩まされ続けた都市であった。
 その中でも明暦三年(1657)の大火は、江戸市中のほぼ全域をのみ尽くし、焼死者は十万人に及んだと伝えられる。

 以前に発掘調査をした港区芝田町五丁目町屋跡遺跡にも、そうした被災状況を物語る痕跡が多々認められたのを思い出す。
 例えば掘り下げた土層断面を観察すると、被熱作用により赤く焼けた層が幾重にも存在する。
 もちろん炭化した木片も集中している。
 こうした層が深さ2メートル下まで確認され、焼け跡を整地する度に嵩上され新たに生活面を形成してきたことが理解できる。
 発掘はこうした数次の生活面を、上層から一枚づつめくるように掘削するのである。
 当然、掘り下げるにしたがい時期は古くなる。

 さて、この遺跡の性格を簡単に紹介しておくと、古地図上では旧東海道に面した位置にあり、町屋が形成されていたことが分かる。
 特に興味深いのは街道筋に面した側には土蔵跡が見られ、大店を構えた富裕層の居住空間であることが推測される。
 その裏側には、長屋が軒を連なれ、庶民層の空間が広がる。
 長屋跡の路地には木樋の排水溝と、その奥には井戸やゴミ捨場が設けられている。
 そして幾つものゴミ穴が掘っては埋められ、中からは古伊万里や古瀬戸をはじめとした多量の陶磁器片や、サザエやハマグリの殻、獣骨や魚骨など食べかすがまとまって出土する。
 まさに江戸は一大消費地として、全国津々浦々からあらゆる物資がもたらされていたことを証明するかのようである。

 それは江戸から東京へと150年の時間を経た現代社会でも、ゴミ問題や災害への危機感は同じ悩みの種となっている。
 隙間のないほどの遺構の密集度にも、21世紀を生きる我々とさほど変わらぬ息苦しい住環境に生きた先人を思うと、同情にも似た親近感すら覚えてしまう。

幕末面の調査風景_convert_20140629144621


 しかし、災害の度に見事に街を復興させていく逞しさには、大いに見習うべきものがある。明暦の大火は開府以来の中世的都市を一掃し、代わって都市計画に基づいた新たな近世都市を出現させることになった。新生の高らかな槌音は地方からも多くの人々を招き寄せ、江戸は一気にその市街地を広げることになる。
 そして次に迎える元禄期には町人の豊かな経済力を背景とした、浮世絵や歌舞伎や浄瑠璃など市井の文化の華を開かせ今日に至るのである。
 
 都市として東京の姿は常に変化し続ける。
 6年後には東京オリンピックも控え、勢いはさらに加速してゆく。
 そうした未来志向の世相とまるで逆行するように、私は来月から江戸時代の遺跡を掘ることになる。
 そこに埋れているタイムカプセルを開けることにしよう。
 過去と現代を、さらに未来へと遥かな時間軸を紡ぎに、朝の混雑する通勤電車に押し合い圧し合い揺られ、いにしえの江戸の町に、いざトリップ トリップ。
 
 




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 ここにもうひとり、丸橋忠弥についても話をしてみたいと思う。
 この人物も其角と同じ境内に眠り、 しかも墓はお隣どうしという縁だが、両人ともまったくもって接点はなく、生きた世代も違う。
 さて、ここにこうして名前をあげてみたが、いったいどんな人物であったか記憶の糸は限りなく細くおぼつかない。
 だが、由井正雪に関係したと言えば、なんとなく時代背景や何をしたのかぐらい縁取りが見えてきそうである。
 そう、慶安四(1651)年に起きた“由井正雪の乱(慶安の変)”に加担し、江戸の襲撃を受け持ったのが忠弥なのである。

 まずはこの乱の事について触れておくと、江戸幕府の相次ぐ藩の取り潰しにより 巷には仕官先を失った浪人が溢れかえった。
 これにより強盗などが頻発し、治安が悪化し世の中は不安が増すばかりであった。
 その最たる原因である浪人の救済を目的として、幕政の転覆を企てたというのが乱の真相とされている。
 しかし計画そのものはかなり無謀なもので、まずは江戸市中を火の海にしておいて、混乱に乗じて老中をはじめ主だった幕閣を襲撃する手筈であった。
 一方の正雪は京都において御所にいる天皇を吉野に担ぎ出し、そこで幕府を討つ勅命を賜ろうとしていた。
 さらに大阪でも同志である金井半治が狼煙をあげ、今風に言ってしまえば同時多発テロの様相を呈する。

 クーデターとしての見かたもあるが、火を放ち関係のない人々まで巻き込むあたりはいずれにしろ迷惑千万なものに違いない。
 ところが同時代の人々は、乱が鎮まった後に彼らを英雄として祭り上げた。
 それは浄瑠璃や歌舞伎の舞台においてであり、『慶安太平記』として前々代の鎌倉幕府が倒された時に擬えて、徳川の悪政を揶揄する形で描かれている。
 ちなみに正雪は元々町人の出身であったが、楠木正成の子孫と称する軍学者に弟子入りし、その才能を見込まれ婿養子になったと伝わる。
 一時は楠木姓を名乗ることもあったようだが、鎌倉幕府を倒した貢献者のひとりに関連づけられるのは偶然と言うべきものなのであろうか。
 忠弥にしても関ヶ原の戦いで西軍に組みし家康に敗れ、改易になった後も大坂の陣で再度反旗を翻して、最後には刑場の露と消えた土佐の大名長宗我部盛親の落胤という流説もあるほどだ。
 とりあえず話の真偽のほどは別にして、こうした因縁で語られる背景には、やはり幕政に対する人々の鬱屈した不満があったからだろう。

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     「掘端」の段
 忠弥は世間を欺くために酒浸りの日々
 左は中間姿で泥酔したふりをして、江戸城の堀に小石を投げ入れ煙管片手に耳をすます見栄が見所の名場面
 右はそれを訝しむ松平伊豆守


 それでは乱の結末は如何に。
 まあ、よくある話で同志に裏切り者が出て計画は露見し、忠弥は寝込みを襲われあえなく捕縛されてしまう。
 その時の様子が家火だという騒ぎに屋根伝いに逃げたところ、待ち構えていた捕方に御用と相成った訳だ。
 本来は宝蔵院流の槍の名手として聞こえが高く、捕方はかなり用心していたのだが、慌てていたために槍は置き去りにしてきたらしい。
 そして取り調べられた後に鈴ケ森の刑場で斬首と、死際まで盛親に倣うことはないものをと思うばかりである。
 今でも文京区本郷に忠弥坂と呼ばれる地名が残されており、この坂の上辺りに忠弥が開いていた道場があったそうで、いかに庶民には親しまれていたかが窺える。
 それと正雪の方だが、こちらも京都に向かう途中の駿府の宿で捕方に囲まれ、観念して自刃して果てた。
 これまた正成の湊川の戦いと似ており、足利軍に囲まれ自害する最後に、こうなると皮肉の連鎖と言うしかない。

 しかしである・・・
 世の中に不満が渦巻くと楠木正成や長宗我部盛親など、前代の亡霊がひょっこり顔を覗かせると言うのも、歴史というものが常に生きているからこその証なのかも知れない。
 と言いつつグローバル化が進む複雑怪奇、そして混沌たる現代社会に生きる私たちには、いったいどなたが降臨されることやら、こちらも興味深々なものなのである。
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 四月から通う発掘現場には数少ない本数のバスの都合で、どうしても早起きして通わねばならない。
 早く着いて余った時間は、周辺を散策などしながら草花の写真を撮ったり、史跡など訪ねて回ることにしている。
 気紛れで行き当たりばったり、たまに飽きればでわざわざ遠回りなどして行く。
 そんなある時、少し遠くの方に立派な寺の構えが見え隠れする。
 興味を覚えつつ近づいてみれば、門前に史跡と彫られた石柱が目にとまる。
 さらに続けてその下には、あまり馴染みない人物の名前が深々とある。

 その寺の名前は富士山上行寺と号する。
 元々の縁起は古く相模国小田原に開創したものだが、家康が江戸にはいるころになると桜田、八丁堀銀座、芝伊皿子、芝二本榎と転々と場所を変えている。
 そしていよいよ昭和も戦後に至れば、再び相模は伊勢原へと移ってきた。
 そうしたことから本来は江戸で葬られた人物の墓もこちらに移築しているようだ。
 面白いのは俳人の室井其角である。
 其角は松尾芭蕉に師事し、師の臨終に際しては『芭蕉翁終焉記録』を綴った人物で、江戸庶民の間では人気が高かったらしい。

 ここに面白いエピソードがある。
 後の赤穂義士ひとりに数えられる大高源吾に、両国橋で偶然に出会った時の話である。
 その時の源吾の姿は、煤払いの笹竹売りに身をやつし糊口をしのぐ態であったが、間もなく西国のと或る家中への仕官が決まったことを告げた。
 そこでかねてより知り合いであった其角は、餞別にこう歌で問いかけた。
   「年の瀬や 水の流れと 人の身は」
 これに源吾は付句で応える。
   「あした待たるる その宝船」
 何とも意味ありげな歌ではないか。
 討ち入りは間近と言う事を案にほのめかしているのである。
 もちろん其角はその意味を理解したと言う。

 さて、折角なので源吾についてもいま少し話を続けさせて貰いたい。
 あの討ち入り直前の笹竹売りは、吉良邸の様子を探索するまさに仮の姿であった。
 そして両国橋の一件から間もなくして、上野介の首をあげ無事に本懐を遂げることになる。
 その時にも一句を詠んでいる。
   「山を裂く 刀も折れて 松の雪」
 未明より降り積もった雪の夜の吉良邸。
 攻める赤穂四十七士と必死に守る吉良家臣団が、敵味方共に白刃を振りかざし入り乱れる壮絶な様子が、短いなかにもよく物語られている。
 また、幕府の命により切腹して果てる時の辞世の句も残されている。
   「梅で呑む 茶屋もあるべし 死出の山」
 源吾は子葉の雅号を持ち、江戸俳諧の人々とも積極的に交流していたとも伝えられ、いかに風流人であったかが窺い知れよう。

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 ついでながら両国橋での一件は、後に『松浦の太鼓』として歌舞伎で演じられるようになった。
 また講談でも語られ、物語は単純明快な人情ものとして人気のある作品に仕上がっている。
 ついでのついでながら源吾の子孫に大高又次郎なる人物がいる。
 又次郎は勤王の志士であり、池田屋事件で新撰組に襲撃され命をおとした人物だ。
 それは赤穂義士の討ち入りから161年を経ての出来事であったが、まったく逆転した立場で歴史に名を刻むことになってしまった。
 さらに新撰組隊士の着るダンダラ模様(袖口が山形)の羽織が、あの赤穂義士が着用したものを参考にしていたとは何とも皮肉と言わざるを得ない。

 などなど其角に始まり書き綴ってみれば、遥か時空を超えて又次郎までたどり着く、歴史とはつくづく巡りめく奇なものである。


2014.05.03 山吹の里


 「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだに無きぞ悲しき」
 この歌は醍醐天皇の皇子である中務卿兼明親王の作と伝えられてます。
 しかしどちらかと言えば、太田道灌にまつわる逸話として知る人が多いのではないでしょうか。

 私は仕事がら日本全国に足を運ぶ機会が多く、それこそ名すら知ることもなかった小さな村から、地方の中核都市までと行脚の日々が続く。
 その中でも初めて訪れる土地は妙に楽しみなもので、まるで子供の頃の遠足のように胸をときめかせてしまうものだ。
 そこでの出会いや発見もまた大切な思い出となり、こうしたことを通して学んだものは何よりの財産として刻まれてきた。

 今は神奈川県の伊勢原に通う毎日だ。
 自宅を早朝に出て一時間半の八時前に目的の場所へとたどり着く。
 途中電車を2回乗り継ぎ、更に中高年の登山客に混じりバスに揺られゆく。
 そこは山裾に広がる小さな集落で、この季節ならではの色とりどりの春の花々が目を楽しませてくれる。

 バスは本数が少ないのでどうしても早い便に乗るしか都合がつかず、おかげで余った時間は散策がてらブラブラしながら現場へと向かうのが新たな日課となった。
 肩からカメラをぶら下げて里道や庭先、神社の境内と咲き並ぶ花を撮って歩く。
これだけでも眠い目をこすり、早起きした甲斐があると言うものである。

 さて、本題の道灌の話をしよう。
 冒頭の歌は道灌が鷹狩の帰りにわか雨にあい、近くの農家で蓑を借りようとした際のこと。
 家の中から出てきたのはひとりの娘で、ただ黙って山吹の花を差し出した。
 すると道灌はこの思わぬ非礼に腹ただしくなり、雨の降り注ぐのも構わずその場を後にした。

 そうした出来事を或る家臣にしたところ、あの娘の胸の思いをこう諭してくれたのである。
 「私の家は貧しく、生憎とお貸し出来る蓑などありません。ですのでどうかこの歌に免じて恥をうううお許しください」
 つまり歌の中に出てくる“実の”を“蓑”にかけていたのだ。

 それからの道灌は、己の無知を恥じて学問に勤しみ、死後も文武両道の鑑として崇められるまでに至った。
 戦をさせれば八面六臂の活躍で敵を全く寄せつけず。
 また和歌を詠ませれば、宮中の雅人にも劣らぬほどであったと伝えられる。
 その一端を垣間見るような、奥ゆかしく洒落た逸話として、先の歌と道灌の話は語り継がれてきた。

 しかし世の中とは何が因果するか不可思議なもの。
 時にしてあり余る才気は逆に厄を招くことも多々あるものだ。
 道灌のそうした非凡なるものは怖れられ、時には疎まれ非業の死を迎えねばならい運命を用意していた。
 それは関東管領であり主君の上杉家に謀反のあり猜疑をかけられ、館に誘い出され油断していたところを襲われるという無念の結末である。

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 少しばかり話が長くなってしまったが、私が乗り降りするバス停は“道灌塚前”である。
 そう、この辺りに道灌が刃の露と消えた館跡の比定地があり、毎朝散策する途中にその墓も実在する。
 そうしたことを物語るかのように、いま発掘している遺跡から出土する遺物に、当時高価で権力者にしか持ち得ない貿易陶磁器の小さな破片がある。
 こんな何もなさそうな静かな土地にも思わぬ歴史が残され、それに不意に出逢えたことの驚きは鮮明なる記憶として、アルコール漬けのやや劣化しつつあるこの脳細胞にまたひとつ刻まれることになった。
 それにこの辺りでは山吹の可愛らしい黄色い花もよく見かけるが、これも我が心象風景として永くとどまることになるはずである。

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2014.02.16 まだ見ぬ歴史
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 歴史の教科書に記載されているものが過去の全てではない
 ましてや真実かどうかも漠然とした藪の中なものさえある
 いま立っている両の足元には、まだ知ることのない歴史が数多く埋まっている
 彼らは永い時を経て静かな眠りの中にあるが、ひとたび光があたれば真実を語りだす
 ただし、それには聞く側に辛抱強さが求められる
 何故なら遺構や遺物はあまり饒舌ではないからだ
 それでも嘘は決してつかない
 
 これまでの竹松遺跡における発掘調査の成果が、先週の日曜に一般公開された
 千九百年前に此処で暮らしていた弥生人は、現代に生きる私達に何を伝えてくれるのであろう


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長崎新聞現説雉・jpg20140205_00000_convert_20140216090800
2013.12.09 一二〇八
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 一二〇八(ひとふたまるはち)
 この数字が意味するものは・・・
 では「ニイタカヤマノボレ一〇二八」とすれば、大部分の方は理解できるはずだ。
 そう、日本帝国大本営より機動部隊に発せられた暗号の電文。
 太平洋戦争の幕開けである。

 1941年11月8日。
 この時に陸軍は、当時イギリス領であったマレー半島コタ・パルを急襲した。
 それから遅れること2時間あまり、南雲中将に率いられた空母機動部隊からは、真珠湾に向け戦闘機と爆撃機が次々と暁の空へと飛び飛びたった。

 敗戦後、あの真珠湾での攻撃は宣戦布告することない騙し打ちで、国際法においても強く非難されることとなった。
 こうした意見は戦後しばらく語られてきたが、真実は必ずしもそうでなかった指摘もある。
 つまりアメリカの大統領であったルーズベルトは、戦争に消極的であった国民や世論をいかに導き、日本を叩こうかと思案しあぐねていた。
 そのためにはまず先に日本から仕掛けさせ、大義名分をつくる必要があった。

 そんな最中、日本本国からワシントンにある大使館には、宣戦布告を告げる電文が送られてきた。
 それをタイプして、正式な文章に直すので手間取り、通告は真珠湾攻撃から、不運にも1時間後になってしまったのだ。
 だが、ルーズベルトはこうした機密情報を早い段階で傍受していたらしいが、攻撃目標とされているハワイへは何の連絡もしなかった。
 このようにして米国での反戦ムードは、一気にして卑怯な敵を倒そうとした好戦的な感情へと傾いてゆくことになる。

 さて、最近の東アジアの情勢をみていても、きな臭い緊張感が高まっている。
 そうした背景には領土問題があり、先の戦争で屈辱的な歴史を刻むことになった中国や韓国の感情が未だに燻ってもいる。
 韓国の朴槿恵大統領は、日中韓で共通認識の教科書をつくることを提唱しているが、果たしてそれは可能であろうか疑問である。
 極めて強く客観的であろうとする意思がなければ、こうした作業を徒労に終わってしまいかねない。
 それより火に油を注ぎかねなくもない。
 いまの情勢から共通の歴史認識をもつには、まだまだ長い道程と時を必要としなければならぬようだ。
 友好国であるはずの米国とでさえ、開戦時の経緯は藪の中であるのだから尚更の問題である。

 話は変わるが戦前戦中の皇国史観の揺れ戻しのように、自虐的な史観が敗戦後しばらくはびこってきたように感じられる。
 そしてこうしたことについて発言しようものならば、すぐに右か左と色分けしたがる雰囲気も醸造されてきた。
 果たしてこうも単純に全てが語れるものなのであろうか。
 ならば西欧の列強諸国によるアジア植民地化のうねりから、「大東亜共栄圏」を掲げ戦争へと突き進まざるを得なかった日本の立場と役割を、きちんと整理しておかねばならない。
 いやいや、それ以前の日露戦争の辺りから、東アジアを取り巻く情勢も頭の片隅に置いておく必要もある。
 歴史とは常に連綿たる時間軸上に折り重ねられてゆく。

 ところで日本国内には未だに数多くの戦跡遺構が、ひっそりと取り残されているのを知っているだろうか。
 あの広島の原爆ドームはあまりにも有名であるが、案外に身近なところに廃墟同然で朽ち果てようとしている遺構も多い。
 こうしたもの言わぬ証人ではあるが、その存在そのものが史実であり、かつて日本は本当に世界を相手に戦争をしていたのを改めて教えてくれる。
 だからこそ、こうした遺構を守っていくのは大切なことなのである。
 そのためにはどのように保存整備し、活用していくかが重要な課題となる。
 

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日露戦争を機にして造られた鉄筋コンクリート製。
基底部の直径は12m、高さ136mの煙突状もの3本が正三角形に配置され、近代化遺産として重要文化財に指定されている。

 

 国道202号線を往くと突然に開けた視界の向こうに、ひときわ高くそびえ建つ3本の塔が飛び込んでくる。
 針尾に残る旧佐世保無線電信所だ。
 「ニイタカヤマノボレ一二〇八」を送信したと伝えられる施設であるが、確証的な記録は残されてなく不明である。
 それでもここから刻々たる戦況の局面を左右する電文が、大空を駆け巡っていたのは間違いなき事実。

 開戦から72年目の本日。
 いよいよ高齢化は進み、哀しみと苦難な時代を経験されてきた生き証人の方々も少なくなってきた。
 だとすれば当然ながら戦跡遺構が果たす役割も見直さなくてはならない。
 戦争という負の遺産をかけがえのない歴史的資産として伝えねばならぬのは、戦争を知らない次の世代の責務である。
 そして本当の平和を希求する上で、最も必要としなければならないのも、これからを生きてゆかねばならない人々のはずなのであるから。
 いつの日か太平洋戦争の本質が国境を超え、きちんと語りあえることができるようになる時がくるまで、戦跡遺構の役目はまだまだ終わることはない。


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