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炎天下の下で、大人に交じり小さな子供も懸命に練り歩く


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左側にさす刀は鞘よりも柄が倍以上も長く、太鼓に括りつけておかねばならない


 豊臣秀吉といえば立身出世物語を絵にかいたような痛快さと、気さくな人柄と庶民性もあり人気の高い武将のひとりでもある。しかしその晩年は傲慢で、年老いて授かった幼子の行く末を案じるあまりに、猜疑に凝り固まりついには甥である関白の秀次と、その一族の首までもはねてしまう。そして国内を平定し終えると、今度は海を渡り明国にまでも野望の眼が転じられることになる。途中において講和期間があったものの、1592年~1508年の7年間にわたる文禄・慶長の役は、国力を疲弊させるばかりでなく、隣国の朝鮮や明を苦しめることになった。

 少し前置きが長くなってしまったが、かねてより見ておきたかった伝統芸能がある。今風の派手さはなく、知名度も限定されたものだが、歴史は古く文禄・慶長の役の頃まで溯るらしい。それは鹿児島県姶良市で、毎年8月16日のお盆明けに“太鼓踊り”として催される。この戦いで島津義弘に率いられた1万数千もの軍勢は、見知らぬ異国の地を転戦して回ることになる。だが内陸深く攻め込むと、至る処で兵站地は寸断され、慢性的な兵糧不足と厳しい冬の寒さに多くの犠牲を払わねばならなくなった。それでも善戦すること、その勇猛で知られる隼人の剽悍さは敵である朝鮮も怖れをなすほどであったらしい。現代でも“シーマンズ”という言葉と共に、厄祓いの神として崇められるのはこうした由縁がある。

 さて秀吉の死と共に戦は終結したが、帰国した際に義弘が習い覚えさせたのが太鼓踊りの発端であるらしい。戦国時代を生き抜いた武将であるとはいえ、多くの仲間の屍を残し、どのように故郷の地を再び踏めばよいかの迷いもあったであろう。それを払い去るにも何らかのイベントを必要としたのかも知れない。異常に長い刀の柄を太鼓の前に突き出し、白塗りの顔に立派なつけ髭をしたユーモラスな格好だが、先導する舞手と小鉦に二列縦隊で黙々と従い練り歩く姿は勇壮で、遠い昔の薩摩武士の片鱗をも感じさせられるようだ。


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吉左右踊りは西別府地区だけに伝わる独特なもので、陣中に白狐と赤狐が現れ勝利したのを表現する
後続の向かって左側の長刀を抱えるのは朝鮮軍で、右側は島津軍である 



 また同地区には“くも合戦”なるものも盛んで、6月の時期が到来するその1月前には山野に分け入り、強そうなコガネグモを捕えては自宅の庭や屋内で飼育する。これも義弘が陣中にあって兵士の士気を高め、日々の慰めにしたのが起こりだと伝えられている。また、さつま川内市には出陣した湊があり、ここには久見崎盆踊りがあり、別名をを“想夫恋”ともいうが、太鼓踊りと同じ日の盆明けに地元の夫人が、黒紋付に黒頭巾のいでたちで、哀調溢れる調べにのせて輪になり厳かに踊るものである。これなどは朝鮮で犠牲となった夫や子供を偲ぶもので、時を超え様々な形として伝えられるものがある。


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くも合戦”は一本の棒の上で先に糸を切られ落ちるか、絡めとられれば負けである


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出番待ちの小さな継承者たち
いつしか故郷の懐かしき思い出として心に刻まれるかな
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