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 前回の春分の日の話は随分と硬い内容になってしまったので、ここは軟らかなバージョンも書いておかねばと思い直し、彼岸との関連性についても少し紹介してみたいのであります。
 
 さて、「暑さ寒さも彼岸まで」とはよく言ったもので、桜前線が話題となるのもこの辺りからではないでしょうか。
 しかし今年の開花宣言は「寝耳に水」とはこのことで、例年よりも早く、そしていきなりで心の準備もままならぬまま近くの城跡に出かけてみたしだいです。
 ですが、まだかまだかと待ち焦がれる間合いなるものがなければ、なんだか楽しみは半減してしまいそうで損をした気分でした。
 まあ、つべこべ言っても咲いたものは仕方ないのですが、やはりこの季節は清々しく良いものなのです。

 ところで春分の日は彼岸の日でもあります。
 それぞれの家では墓参りなどして、先祖の供養をすることになります。
 彼岸は春分の日である中日をはさみ、彼岸の入りの前3日間と彼岸の明けの後3日間で、合わせて7日間を指します。
 太陽がほぼ真東から昇り真西へ沈んでいくという同じ軌道を通る秋分も同じことで、7日間がこうして法会にあてられることになるのです。

 その彼岸の語源ですが、仏教でいうところの“波羅密多”を、古代中国では“到彼岸”と訳すことに由来するそうです。
 つまり私達の住む煩悩の世界を“此岸”とするなら、極楽浄土のあの世が“彼岸”となる訳です。
 このことから彼岸はあの世の祖先を思い、墓参りをすることになるのですね。

 それがちょうどこの春分のこの時期に、仏教の彼岸会という行事が催されていたことから、天文学的事象と宗教的行事が重なり、やがて定着していったものと考えられてます。
 なお、最初の彼岸会は806年に、平城天皇が霊を鎮めるために行ったという記録が残されています。
 さらに仏教では涅槃の世界は西方にあると信じられていたこともあり、法然や親鸞などが唱えた浄土思想が盛んになると、春分と彼岸の結びつきはより強くなっていったものと考えられます。

 ここで彼岸になくてはならない供物があります。
 それは“ぼた餅”です。
 あの餡でもち米を、厚く包んだぼた餅です。
 甘党の人には嬉しい日ですよね。

 そのぼた餅は牡丹の花が咲く時期食すのでこうした名前が付けられたと言われてます。
 では、秋分はと言えば、萩の花の時期ですからおはぎとなります。
 ともに餡が用いられるといえあれていますが、その餡も春分がこし餡で、秋分は粒餡らしいのです。
 つまり収穫したての小豆は皮がやわらかいので粒のままでも大丈夫ですが、年を越したものはこし餡にしなければ硬くて食べれないからそうです。

 理に叶ったような話ですが、地方によってはまた異なる風習もあるように思われます。
 何故なら私は粒餡であろうがこし餡であろうが、餡に包まれたものはぼた餅で、きな粉をまぶしたものがおはぎだと教えられてきたからです。
 それに春分と秋分でぼた餅とおはぎと呼び分けることも、つい最近になり知りました。
 また私の故郷である鹿児島では、米粉から作った団子に餡をかけたものを供えます。
 他にもいなり寿司の地方もあるらしいのです。

 ともあれ現代では加工技術も進み、小豆の皮の硬さなど気にするところではないでしょうが、こうした話を聞くと先人の生活の知恵なるもに触れられたようで楽しいものです。
 ちなみに「棚からぼた餅」という諺は、いかに小豆が贅沢品であったかが窺い知れます。
 大豆が原料のきな粉では、「棚からおはぎ」では、あまり有難味が伝わってきませんよね。

 最後に軟らかな話をもうひとつ。
 ぼた餅の語源は、サンスクリット語でbhukta(飯)とmirdu(軟らかい)にあるらしく、どう発音したらよいやら分からないので何とも言えませんが・・・
 それでもなんとか無理して読んでみると、“ブッタムーデュが“ブタムーチュ”、そして“ボタモーチ”と聞こえてきそうではありませんか。
 ねっ!


  
 
  

  
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 “ケンカ大六”なる人物をご存じであろうか。
 考古学の世界では知る人ぞ知るのだが、たぶん若い研究者にはピンとこないだろう。
 かく言う私も面識はない。
 されど彼を知る人から話を聞くと、とても気難しく近寄りがたい、孤高のイメージしか伝わってこない。

 何故にこういう話をするかというと、今日は春分の日である。
 その春分を簡単に説明すれば、ほぼ昼と夜の長さがほぼ同じとなる。
 そしてこちらもほぼ東から登った太陽がほぼ西へと沈む日なのだ。
 故に農耕民族にとって春分の日とは、作物を育てる目安として大切な節目といえる。

 冬の長い眠りからようやく醒め、そろそろ作付けをしても大丈夫だと保証してくれるのが春分の日なのである。
 この日を境にに昼は徐々に長くなり、夜と逆転する。
 すると植物は芽ぶき、動物は新たな生命を宿す。
 太陽のよみがえりは、本格的な春の訪れを告げる。
 つまり再生という意識がその根底にはあるのだ。
 
 さて、ケンカ大六であるが、本名は原田大六という。
 大正六年に生まれたということで、大六と命名されたらしい。
 福岡県は西部の糸島郡前原町(糸島市)に生まれ、少年時代より土器など太古の遺物に大変な興味を持っていた。
 成人してからもその思いは冷めることなく、ますますと考古学に傾倒していくばかりであった。
 大六の生まれ育った糸島平野は『魏志倭人伝』にも登場する百余国のひとつで、伊都国に比定されるクニが存在した地域でもある。
 当然にそうした遺跡は身近に存在し、この環境の中で遥かいにしえへの夢を紡いでいたに違いない。
 だが、彼には学問を続けるにあたり、正統な後押しというものがなかった。
 つまり地元の中学を卒業しただけで、後は独学で学問を続けてきたのだ。
 だからなのか大学というアカデミズムに対しては、異常と思えるほどの攻撃的な論調をはる。
 例えば著書『万葉革命』の序文では「真理を愛する若い全国の学生諸君に訴える。骸骨がネクタイを締め、背広を着て、教壇に立ち、骸骨万葉学の講義を行い、学生諸君を骸骨化しようとしている」と皮肉るほどだ。

 どうも大六の話が長くなってしまったが、春分について話を戻すことにする。
 1965年に彼の発掘した平原遺跡の成果は、後に大きな問題を提議することになる。
 確認された2世紀後半の割竹形木棺と、その周囲右辺からは37面の銅鏡が出土している。
 その内の5面は直径が50cm弱の大鏡で、国内最大の規格なのである。
 木棺長軸の先には2本の対になる柱(鳥居的なものを想定)を立てたと考えられる穴があり、その更に遠い延長上には日向峠と高祖山を望む。
 遺跡に立つと峠と山が重なり合う箇所は谷間に見え、春分と秋分になると太陽は、必ずこの中心を通ることになる。
 これは暦のなかった弥生時代において、季節を正確に把握する目安となり、経済基盤である稲作の出来具合を左右する重要な役割を果たすことになる。

 大六はこうしたことを想像たくましく、そして実証しようと多くの論文を書いた。
 平原遺跡の被葬者は太陽に深く関連した人物で、『記紀』に登場する神々にまで結びつけようとしたのである。
 当時の学界は戦時の反省から皇国史が排除され、唯物史観が主流を占めていたこともあり、大六の学説は黙殺され続けた。
 それに在野の研究者に対する壁は余りに厚く、そして超えるには高すぎた。
 こうなると彼はますます吼える。
 そして噛みつくしかない。
 相手が高名な大学教授であろうが、真っ向から論調をはり続ける。
 いや、学府の権威者であるからこそ、学問に対して必要以上に真摯な姿勢を望んでいたのかも知れない。
 そして持論は邪馬台国九州説にたどり着く・・・。

 平原遺跡と春分の関連性については、まだまだ多くの実証を要することになるが、ただ弥生人にとっても太陽の運行は大切な行事として意識されていたのは間違いない。
 こうして今日まで受け継がれてきた深層的な意識は、形を変えながらも身近な年中行事として私達の生活にしっかりと根付き、将来においても引き継いでいくべき、民族のかけがえない民俗文化であり考古資料なのである。



 
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ICHI  大村市


 表札ほどの小さな看板に控え目に屋号が書かれているだけで、暖簾も提灯もないラーメン屋がある。 
 いや、ラーメン屋だと誰かに教えてもらわねば、何を生業としているのかも分からないくらいだ。
 以前から気にはなっていたので、近くを通る度に外側から様子を覗いたりもするのだが、店内の灯りは暗く、人のいる気配すらない。
 まるでひっそりと目立たぬように、その店は駅前にある。

 それでもよく観察すれば店の軒先には小さな黒板が立てかけてあり、たまに薄いチョークで「open」と申し訳なさそうに書かれていることがある。
 その時だけは民家風の引戸の向こう側から、薄く明かりが零れでている。
 どうやら気まぐれな店主らしい。

 とある日曜日のことである。
 さほどお腹は空いていなかったのだが、どういう店なの常々興味があったので、つい引戸に手をかけてしまった。
 戸はガラガラと引っかかりつつ、鈍い音をたて開いた。
 するとその音を聞きつけて、奥の方から少女のあどけなさを残した、可愛らしい女性が水の入ったグラスを片手に笑顔でやって来た。
 何気なく店内を見渡せば、落ちついた雰囲気でどうみてもここがラーメン屋とは思えない。
 なんだか喫茶店みたいで、カウンター席には単行本が綺麗に並べられている。
 そのほとんどが村上春樹と村上龍であった。

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 そういえば私がまだ20代の頃、ダブル村上が新進気鋭の作家として注目されはじめた頃には、よく読んだものだ。
 特に羊男をめぐる3部作は不可思議な世界観で、理解できそうでなさそうな表現しようもない倒錯さに、知らず知らず引き込まれてしまったのを思い出す。
 気づけば自分の座るテーブル脇にはマガジンハウスの月刊誌である『BRUTUS』が置かれてある。
 「まだ創刊していたんだ・・・」
 こうなると気分は一気に80年代にスリップである。
 
 注文をとりに,今度は店主がやってきた。
 黒いニットの帽子にTシャツとジーンズ姿の、ギターでも持たせたら今にもブルースを歌いだしそうな、同年代の長身で痩せた男であった。
 
 お薦めの“黒ゴマ豚骨ラーメン”を注文し、更に店の中を見まわす。
 心地よいライトジャズが流れ、奥の方で麺を湯切りする音がリズムに合わせるかのように聞こえてくる。
 あのやたらと威勢の良いラーメン屋とは全く異なる空間がある。

 例えばだ。
 店員のひとりが「いらっしゃいませ」と大声をあげれば、他の店員もそこにいる人数だけ同じようにそれに応え連呼される。
 これではうるさくてしょうがない。
 “高菜ラーメン”など注文しようものなら、まるで伝言ゲームのようにカウンター奥にいる作り手の店員まで声が飛び交う。
 「高菜ラーメン1丁!」
 「はい、高菜1チョーウッ」てな具合にである。
 狭い店内の耳元でやられるのだから、たまったものでない。

 豚骨ラーメンの麺はストレートの細麺で、茹でる時間は醤油ラーメンのようなちぢれ麺より極めて短い。
 それでも九州のほとんどのラーメン屋では柔麺・普通麵・硬麺と指定できる。
 硬麺の上には上があり、バリ硬、さらにハリガネと呼ばれるものも存在する。
 「それって生でしょう」などと言いたくもなるが、事実あるのだから仕方ない。
 ちなみに私は硬麺でちょうどいい。

 話がそれてしまったが、注文した“黒ゴマ豚骨”がなかなか出てこない。
 麺の硬さは指定しなかったが、豚骨ラーメンなのでさほど時間がかかるはずなどない。
 遅い午後の昼下がり、客は私ひとりだけ。
 BGMは既に3曲目が終わろうとしている。
 店の奥でカタコトと、どんぶりが小さくぶつかり合う音がした。

 それから間もなく、先ほどの女性がニコニコと、これまた嬉しそうにラーメンを運んできた。
 正面にラーメンどんぶりがすっと置かれ、その左脇には黒ゴマがのっかった蓮華が添えられた。
 「スープに溶かして召しあがってください」
 まずはそのままスープを味わってみる。
 そして次に黒ゴマを溶かせば、一粒ではなく、一杯で二度美味しいグリコのキャラメル方式である。

 味はまったり濃厚スープにしてはあっさりで、臭みもなく食べやすい。
 欲を言えばクセがないというか、コクなるものが感じられなかった点であろうか。
 などとグルメレポーターみたいなコメントをしてみたくもなる。
 しかしゆっくりとした時間の中で、こうしてラーメンを楽しめたのは予想外で得した気分であった。
 やたら威勢のいい体育会系ラーメン屋がある一方で、こうした文化系の店があるのも面白いものだが、さすがに腰をすえて小説など読もうなどとはいきそうもない。

 そうそう、村上春樹といえば、作品を読んだ後に必ずパスタとビールが欲しくなるのはどうしてだろう。
 それは食欲をそそるとはまた異なる、上手くは言い表せないが刷り込み的な、心の隙間にすっとはいってくる何かがあるのだ。
 それをラーメンでやってくれたら面白いだろうなと、食後の余韻にひたりながらひとりもの思いにふけるのである。
 
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 子供の頃によく与えられたせいか、大人になった現在では全く見向きもしなくなったお菓子がある。
 その頃のものはと言えば、味はただ甘いだけの単調なものが多かったような気がする。
 それでも、そうしたものしかないのでというか、知らないので飽きずに頬ばるより仕方ないのである。

 例えばよくもらうお土産の代表格には“ひよこ”がある。
 そのつぶらな瞳で頭を少し傾げ、手のひらにちょこんとのっかる愛らしい姿は、食べるのを躊躇わされたものだが、今でも博多のキヨスクや福岡空港でよく見かけ健在そのものである。
 だが、てっきり福岡を代表する菓子だと思っていたものが、学生になり上京した時にうり二つの形をし、同じ商標で東京土産として売られていたことに驚かされたことがある。
 この疑問は随分と後になって解決したが、“ひよこ”なるものは他にも類似したものが存在するらしい。
 この話はいずれするとして、食べ飽きて記憶の彼方に置き忘れてしまった、懐かしい菓子に話を戻すことにしよう。


 写真の「ボンタンアメ」と「兵六飴」は、鹿児島市内にあるセイカ食品で造られる菓子だ。
 キャラメル風の箱型のパッケージにキューブ形をした粒が、澱粉でできた透明なオブラートに包まれ収まる。
 子供の頃はこのオブラートが苦手で、わざわざむいたものである。
 それに水飴を練り込んであるため、粘り気が強く歯にくっつきやすいために噛むのが面倒なのである。

 ボンタアメはみかんの果汁が含まれオレンジ色に、兵六飴は海藻と抹茶で緑の色をしている。
 いずれも子供の舌には馴染まぬ微妙な味で、せっかく貰ってもあまり嬉しかった思い出はない。
 むしろ、またこれかと落胆したものであった。
 以来そうしたこともあり、これまで随分と口にしたことがないまま過ごしてきた。

 ところが一粒を手にとる機会が最近あったのだ。
 発掘をしてると思いがけない遺構や遺物を発見し、胸をときめかすことがよくある。
 それと同じくらいに楽しみなのが、午前と午後の休憩のひとときである。
 参加している作業員さんが、おもいおもいおやつを家から持参して、ちょっとした野外でのティータイムとなる。
 ちょうど今なら頭上に雲雀のさえずり、それを聴きながらなかなかのものである。

 そうした和やかなひとときに登場するのが、あの懐かしきお菓子たちなのであるが、参加されているのが同年代以上の方が多いせいか、どうしてもこうした傾向になりがちなのはいたしかたない。
 ましてや頂く身であれば、そう贅沢も言えまい。
 そこに件のアメと餅も登場したのだが、懐かしさも手伝い一粒を口に放り込んでみる。
 すると遥か遠い日々の思い出が、ビミョウな味覚と共に呼び起こされる。

 遠足の時に無理やりに親に持たされて、ならばチロルチョコレートの方がよかったのにと、口をとがらせありがた迷惑だったこと。
 出張ついでの土産に、父親がポケットからおもむろに一箱とりだし、これまたがっかりしたこと。
 親戚の伯父さんがお小遣い代わりにニコニコしながら手渡し、それに無理な笑顔をつくりありがとうを言なわければならなかったこと。
 うーん。
 どうも哀しき記憶ばかりではないか・・・。

 しかしながらあらゆるものが満ち溢れ、どれにしようか選ぶのに困るほどの現代社会において、深く脳裏に焼きつけられる味なんてあるのかな。
 そう思うと少し得をした気にもなってくるから、不思議なものである。
 
 テレビでは朝から震災に関するニュースが溢れている。
 今では進まぬ復興が大きな課題のようだ。
 私がその街を訪れたのは、震災の爪跡もまだ生々しい半年後のことだった。
 東北の深まる秋の寒さと、むき出しのコンクリート基礎だけが残る荒涼たる風景に、言葉にできない寂寥たる印象が強く焼きついた。
 
 昨日はあの日から二年目の節目となる。
 14時46分。閖上の読み方すらも分からなかった町から、遠く離れたここ長崎にも鎮魂のサイレンが鳴り響く。
 “ゆりあげ”という名は、決して忘れることはないだろう。

黙祷・・・

 
 以下は2011年1月13日の再掲です春は未だと
 潮風に  見知らぬまちの
    名を尋ね
       津波が瓦礫  春は未だと
 
 

名取市の閖上(ゆりあげ)は仙台湾に流れ込む、名取川の河口付近に広がる地区でした。
あの大津波によって甚大な被害を受け、どう読めばいいのか分からなかったその地名が、
毎日のようにニュースで伝えられました。
そして今でも海が眼の前に迫る小さな丘には、多くの献花がたむけられています。

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2013.03.11 時代
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 今月末に博多にあるの事務所が引っ越すことになる。引っ越すといっても同じビルの1階から5階なのだが、今までの半分の床面積しかない。そうなると個人の蔵書は置き場などなく、とりあえず実家の鹿児島に移動させることにした。
 そういうことで週末ともなるとなると、福岡、長崎、鹿児島の間を行ったり来たりの連続だった。それも一昨日でようやく一区切りがつき、ダンボール箱を愛車にぎゅうぎゅうに押し込み、あとは黄砂で霞む九州道を南へとハンドルをきる。
 しかし本とは思った以上に重いもので、4駆にもかかわらず車高は深く沈みどうにも安定感が良くない。

 鹿児島に着けば、遠く桜島は霞み火山灰なのか黄砂か見分けがつかないほどであった。
 家では出迎えてた両親にも手伝ってもらい、重い荷物を部屋へと運び込む。そこには先に持ち込んだ本の山が既にあり、片付けながらなんとか収まるように積み上げていく。
 その量の多さに今さらながら呆れてしまい、横では両親が床が抜けるのではないかと実に心配そうであった。

 片づけもひと段落つけばダレヤメとなり、母親の手料理に焼酎を酌み交わす手がすすむ。
 するとこの10ヶ月間の九州での生活が、瞬く間に過ぎ去った寂しさが沁みてくる。
 それは確実に年老いてゆく両親の顔を前にすればなおさらで、長崎での発掘が終われば東京へと戻らねばならぬ後ろめたさに心の中でつい頭を下げてしまう。

 ほどよく酔いも回ったところで、母が奥の部屋から何やら持ち出してきた。
 それは木箱のケースであった。蓋を開けると、中にはカセットテープが並んでいる。あの本を置いた部屋を掃除していたら隅の方から出てきたそうだ。
 30年ほど前によく聴いていた、レコードから録音したミュージックテープである。
 薄く消えかかったインクの文字をひとつひとつ目で追えば、様々なアルバムタイトルや歌手の名がそこにある。
 ひとつおもむろに取り出し、再生ボタンを押してみれば、くぐもったメロデーとともに女性の歌声がようやく聞き取れる。
 「そんな時代もあったねと・・・」
 “中島みゆき”だ。
 歌詞は当時の若い私にはとても実感できるはずのない内容だが、こうして月日を重ね初めてしみじみと感じられるものがある。
 「いい歌だね」、ぽつりと母が云う。
 「うん、懐かしいな」とそれに応える。
  後はノイズなど気にもとめず、ただ黙って耳を澄ます。

       ♪ 旅を続ける人々は
        いつか故郷に出会う日を
        たとえ今夜は倒れても
        きっと信じてドアを出る
        たとえ今日は果てしもなく
        冷たい雨が降っていても


 さて本も全て引き払った事だし、これからの先について少しばかり考えてみよじゃないか。
 そう思うこの頃である。
 
 3月3日といえば言わずと知れた、女の子の成長を願い祝う雛祭りの日です。この祭りの由来は人形が子供の身代わりになって、災いから逃れられるようにということで始まったと言われてます。原型は室町時代にみられる紙で作った人形を使い、人の体になでつけ穢れを移したものを川に流す流し雛の風習にあると考えられています。それとひいな遊び(人形遊び)が結びつき、貴族社会で人形を飾り祀る行事となり定着したのです。
 しかし人形なるものは古代の遺跡からもよく出土するもので、平城京跡の溝からは木製の板を人の形に削った遺物があります。或いは素焼きの土器に人の顔を描いたものも、溝の底の方に捨てられたように見つかることから、身代わりとなるものを捨て去る行為の精神的なものは古くから存在していたのかも知れません。

 ところで今回はそうした人形のことについて書くつもりではなく、桃の節句なる“桃”について少し考えてもみたいのです。この季節に周りを見渡せば、桃よりどちらかと言えば梅の花が目に着きます。万葉人にとっても梅は愛でる対象であり、現在の桜よりも好まれていたようです。
 かの菅原道真も「東風吹かば匂い起こせよ梅の花・・・」と詠んだ、有名な和歌があるぐらいです。それがどうして桃なのかと、随分と前から気になっていました。
 それがトイレ跡である素掘りの便槽を発掘していて、ふと或ることに気づいたのです。そこは深い深いトイレの底の方で、直径が1m、深さも2m以上はあろうかという円筒形の便槽でした。そして私の頭上にはまん丸く切り取られた青空しか見えず、身動きもままならぬ狭さの薄暗い中で目を凝らし、足元の堆積物を掘り下げていました.
すると桃の種がよく見つかるのです。それに瓜の種もまとまって確認されます。余談ながら臭いはあまり気にはなりませんでした。なにしろ400年前のトイレでしたから・・・。

 それから弥生時代の井戸を掘る機会もありました。見た目は便槽とさして変わりはないのですが、相変わらず深い底に潜り込み、手さぐりで遺物を探す作業をしました。するとやはり桃やら瓜の種が不思議と見つかるのです。そこでトイレと井戸の共通点とはしばし首をかしげていましたが、案外にも答えは単純なものでした。
 それは穴なのです。穴は民俗事例では異界へ通じるものと信じられ、それが深ければ深いほど祭祀の対象とされるようです。
 少しばかり前ですが「トイレの神様」という歌がヒットしたのは記憶に新しいかと思います。そうなのです、日本の神様はあらゆる所にいて、普段の私達の暮らしを見守ってくれているのです。井戸には水の神様が、竈には火の神様がいて、何かの時につけ祭祀の対象として崇められてきたのです。ですのでトイレにも当然に神様はいるのです。
そうした神様の供物として、桃や瓜があったのではないでしょうか。トイレ後からよく見つかる瓜については、種ごと食べたものが消化されず排泄されたからだと考える研究者もいます。
しかし私はそうは思えません。なぜなら種はバラバラではなく、一塊りになって発見されるからです。おそらく瓜をそのまま投げ込んだものが、果肉部分が腐食して種だけが残ったと推察できるからです。
ちなみに桃についても同様で、種までも丸ごと食べたからとはとうてい考えられません。

そこで桃の霊力について触れておかねばなりません。国内で現存する最も古い史料に『古事記』がありますが、この中に桃は不思議な力を持った食物として とうじょうします。
それは国生みの神であるイザナミが黄泉の国へ行き、妻のイザナキの醜い姿を覗き見たことに始まります。怒ったイザナキは醜女を使わし、イザナミを捕らえようとしますが、逃げ帰る途中において桃を投げてようやく難を逃れることができました。
誰もがよく知る桃太郎も、桃から産まれ鬼退治をします。つまり桃には邪気を払う力があると信じられ、こうしたことからトイレや井戸のような異界に通じる場に投げ込まれたと考えられないでしょうか。それは瓜もそうで、現代でも橋などを架ける際には胡瓜を供える話をよく聞きます。そして胡瓜は河童の好物でもあり、無事に工事が進められることを水にまつまる異形の神にお願いしているのではないでしょうか。

さて、桃の節句に話を戻しますれば、桃が女の子の健やかな成長を願うためには必要なアイテムであったということは理解できたのではないでしょうか。こうした桃を神聖視する思想は古代中国においてみられるもので、別名では仙果とも呼ばれていることでも窺い知れるでしょう。
その一方で女性の尻に形が似ることからも、妖艶なイメージとして表現されることもあります。「桃尻」の言葉がそうです。そう言えば随分と前にですが、日活ロマンポルノで『桃尻娘』シリーズが人気をはくした時代もあったような・・・^_^
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