| Home |
2013.08.13
零

大分県宇佐市には海軍航空隊があったことで、零戦に関する多くの遺構や遺物が残されています。近くには平和資料館や掩体壕も整備されているので、企画展と併せての見学が可能です。
いま上映中の『風立ちぬ』や、12月の公開が待たれる『永遠の零』と、太平洋戦争時に向かうところ敵なしと恐れられた零戦がちょっとしたブームのようだ。
そうした私も2年ほど前から零戦に関わる仕事がたて続き、小学生の頃プラモデル作りで夢中になった燃えさしに火が付いたように資料を読み漁っている始末である。
さて21世紀を向かえても世界は尚もきな臭さを増すばかりであるが、この日本においても隣国との領土問題で否がをにも緊張の高まりをみせている。
そこに過去の遺物である零戦を引っ張り出しそうものなら、何だか胡散臭い奴だと思われかねそうであるが、臭いものに蓋をするのではなく、自分たちの歴史として直視する勇気は持ちたいものである。
それには当たり前のことながら、直ぐに右や左などと騒ぐつまらぬ思想と、史実はきちんと分けて考えゆかねばならない。
しかしこれが出来ず混同している人が、あまりにも多すぎるようだ。
ところで零戦の正式な名称は“零式艦上戦闘機”と言い、日本海軍の主力戦闘機として活躍したことは広く知られているのではないだろうか。
その高い戦闘能力と航続距離の長さは、敵対する米国を大いに震撼させ、緒戦においては常に作戦を優位に導く上で欠くことのならない存在であった。
しかし戦争が長期化に及ぶと後続機の開発の遅れや、米軍の徹底した対零戦研究が、いつしか名機を旧式のものへと追いやってしまった。
それでも零戦は飛び続けねばならぬ宿命を背負わされていた。
いよいよ敗戦の色が濃くなると片道の燃料と爆弾を抱え、操縦士ごと敵艦に体当たりしなければならない悲運の歴史を刻むことになる。
そうした資料館が特別攻撃隊の最前線基地であった鹿児島の知覧や鹿屋にはある。
ここから多くの若者が片道切符の、決して還れぬ死出の旅に向け大空に飛び立ったのを思うと、つい胸が詰まってしまう。
しかし戦争は何も戦地だけで行われるものではなかった。
激戦の末に硫黄島が米軍の手に落ちると、ここを飛び立ったB29が本土を直接に爆撃することが可能となった。
いわゆる空襲のはじまりである。
雨霰の如く焼夷弾の絨毯爆撃に曝されたのは、何も軍事基地や工場だけでなく大きな都市もその標的となった。
そこには武器を持たぬ多くの民間人が暮らしているのを知りながら、こうなるととても戦争とは呼べない唯の殺戮である。
そして、その延長線上にあるのが、忘れてはならない広島と長崎だ。
戦争がいくら非情なもので認める訳にはいかないが、暗黙のルールなるものは存在する。
そうでなければ敵味方関係なく、人類そのものが、この地球上から消滅してしまうことになりかねない。

東京都府中市白糸台の住宅街に残る掩体壕は、帝都防衛のため陸軍の飛行場があった場所です。つい最近まで無機質なコンクリートドームが空地に放置された状態でしたが、ようやく昨年に保存整備を終えることができました。

整備前の掩体壕の内部に入り調査すると、資材不足のため鉄筋の代わりに丸太が使われていた跡が認められ、貧窮を極めていたのが理解できます。ここには飛燕が格納されていました。

長崎県大村市には東洋一を誇る大規模な第二十一海軍航空廠が置かれ、24時間体制で紫電改を量産していました。しかし空襲により壊滅的な打撃を受け、その後は周辺に分散して生産は継続されました。ここでは終戦までに工員や徴集された学生など400名が犠牲となっています。いまでは公園に残る掩体壕が、かつての面影を伝えるのみですが、公園の遊具として手すりや滑り台が付け加えられ姿は残念な気がします。
ここに戦後68年目を迎え、戦争を体験された方々も高齢化と共にだいぶ少なくなってしまった。
そして戦争遺構も高度経済成長の陰で、戦争はまるで無かったかのように次々と破壊し尽くされた。
それでもかつて基地があった場所に、忘れ去られたように何らかの遺構を見出すことが辛うじてできる。
掩体壕もそのひとつで、米軍の爆撃から残り少なくなった戦闘機を避難させるため造られた施設である。
そうした遺構がいま見直され、少しずつあの戦争の“本当の真実”を語りはじめようとしている。
どうか探してみて欲しいのです。
身近に眠る戦跡遺構を・・・
そして静かに耳を傾けてください。

宇佐市平和資料館には永遠の零で使われた21型の実物大模型が展示されています。


スポンサーサイト
| Home |