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2013.12.09 一二〇八
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 一二〇八(ひとふたまるはち)
 この数字が意味するものは・・・
 では「ニイタカヤマノボレ一〇二八」とすれば、大部分の方は理解できるはずだ。
 そう、日本帝国大本営より機動部隊に発せられた暗号の電文。
 太平洋戦争の幕開けである。

 1941年11月8日。
 この時に陸軍は、当時イギリス領であったマレー半島コタ・パルを急襲した。
 それから遅れること2時間あまり、南雲中将に率いられた空母機動部隊からは、真珠湾に向け戦闘機と爆撃機が次々と暁の空へと飛び飛びたった。

 敗戦後、あの真珠湾での攻撃は宣戦布告することない騙し打ちで、国際法においても強く非難されることとなった。
 こうした意見は戦後しばらく語られてきたが、真実は必ずしもそうでなかった指摘もある。
 つまりアメリカの大統領であったルーズベルトは、戦争に消極的であった国民や世論をいかに導き、日本を叩こうかと思案しあぐねていた。
 そのためにはまず先に日本から仕掛けさせ、大義名分をつくる必要があった。

 そんな最中、日本本国からワシントンにある大使館には、宣戦布告を告げる電文が送られてきた。
 それをタイプして、正式な文章に直すので手間取り、通告は真珠湾攻撃から、不運にも1時間後になってしまったのだ。
 だが、ルーズベルトはこうした機密情報を早い段階で傍受していたらしいが、攻撃目標とされているハワイへは何の連絡もしなかった。
 このようにして米国での反戦ムードは、一気にして卑怯な敵を倒そうとした好戦的な感情へと傾いてゆくことになる。

 さて、最近の東アジアの情勢をみていても、きな臭い緊張感が高まっている。
 そうした背景には領土問題があり、先の戦争で屈辱的な歴史を刻むことになった中国や韓国の感情が未だに燻ってもいる。
 韓国の朴槿恵大統領は、日中韓で共通認識の教科書をつくることを提唱しているが、果たしてそれは可能であろうか疑問である。
 極めて強く客観的であろうとする意思がなければ、こうした作業を徒労に終わってしまいかねない。
 それより火に油を注ぎかねなくもない。
 いまの情勢から共通の歴史認識をもつには、まだまだ長い道程と時を必要としなければならぬようだ。
 友好国であるはずの米国とでさえ、開戦時の経緯は藪の中であるのだから尚更の問題である。

 話は変わるが戦前戦中の皇国史観の揺れ戻しのように、自虐的な史観が敗戦後しばらくはびこってきたように感じられる。
 そしてこうしたことについて発言しようものならば、すぐに右か左と色分けしたがる雰囲気も醸造されてきた。
 果たしてこうも単純に全てが語れるものなのであろうか。
 ならば西欧の列強諸国によるアジア植民地化のうねりから、「大東亜共栄圏」を掲げ戦争へと突き進まざるを得なかった日本の立場と役割を、きちんと整理しておかねばならない。
 いやいや、それ以前の日露戦争の辺りから、東アジアを取り巻く情勢も頭の片隅に置いておく必要もある。
 歴史とは常に連綿たる時間軸上に折り重ねられてゆく。

 ところで日本国内には未だに数多くの戦跡遺構が、ひっそりと取り残されているのを知っているだろうか。
 あの広島の原爆ドームはあまりにも有名であるが、案外に身近なところに廃墟同然で朽ち果てようとしている遺構も多い。
 こうしたもの言わぬ証人ではあるが、その存在そのものが史実であり、かつて日本は本当に世界を相手に戦争をしていたのを改めて教えてくれる。
 だからこそ、こうした遺構を守っていくのは大切なことなのである。
 そのためにはどのように保存整備し、活用していくかが重要な課題となる。
 

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日露戦争を機にして造られた鉄筋コンクリート製。
基底部の直径は12m、高さ136mの煙突状もの3本が正三角形に配置され、近代化遺産として重要文化財に指定されている。

 

 国道202号線を往くと突然に開けた視界の向こうに、ひときわ高くそびえ建つ3本の塔が飛び込んでくる。
 針尾に残る旧佐世保無線電信所だ。
 「ニイタカヤマノボレ一二〇八」を送信したと伝えられる施設であるが、確証的な記録は残されてなく不明である。
 それでもここから刻々たる戦況の局面を左右する電文が、大空を駆け巡っていたのは間違いなき事実。

 開戦から72年目の本日。
 いよいよ高齢化は進み、哀しみと苦難な時代を経験されてきた生き証人の方々も少なくなってきた。
 だとすれば当然ながら戦跡遺構が果たす役割も見直さなくてはならない。
 戦争という負の遺産をかけがえのない歴史的資産として伝えねばならぬのは、戦争を知らない次の世代の責務である。
 そして本当の平和を希求する上で、最も必要としなければならないのも、これからを生きてゆかねばならない人々のはずなのであるから。
 いつの日か太平洋戦争の本質が国境を超え、きちんと語りあえることができるようになる時がくるまで、戦跡遺構の役目はまだまだ終わることはない。


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 天下の日本橋を駄馬にまたがりウトウト居眠りをする肥取り。それを周囲の人々は「落ちるぞ落ちるぞ」とあれよあれよ囃したてる。よく見れば鞍には糞尿をいっぱい溜めた肥桶がくくり付けられているではないか。もし落馬でもされたら、あわや中身をぶち撒けてしまいかねない大惨事だ。
 

 時はいまをさかのぼること二百年ほど前。
 場所は花のお江戸でも庶民が多く暮らす神田は明神下辺りの貧乏長屋でのこと。
 そこでちょっとした騒ぎが起こった。

 何でも共同の厠に溜まった糞尿について、いったい誰のものかで大家と店子が睨みあっているのだ。
 「これはわし達の尻から出たものだから店子のもの」と言い張れば、「そこの厠はあたしの管理しているものだよ」と負けずに大家もやりかえす。
 どちらも全く引く気配が感じられない。

 それもそのはず。
 何しろ汲み取られる糞尿にはお金がかかっているから、そう簡単に諦める訳にはいかない。
 それは現代社会でも同じことのように聞こえるが、しかし江戸時代は今とは立場が逆で金銭を支払い汲み取ってもらうのではなく、貰えるのである。
 だからその所有権をめぐり、どちらも後に引けないのだ。

 百万の人口が集中する江戸はまさに宝の山である。
 汲み取られたものは近郷の農家まで運ばれ、そこで畑に撒かれ下肥となる。
 そして百姓ばかりでなく、こうした流通を専門の業とする肥取りもいたらしい。
 では、どのように運ぶかは天秤棒の両端に肥桶を吊るし担ぐスタンダードなものから、馬に背負わせる方法などが知られている。

 しかし誤ってひっくり返したりでもすればそれこそ大変なことだ。
 余談ながら文献には、こうした笑うに笑えない話が数多く散見するから面白い。
 まずは多くの人々が往来する路上で、見事に撒き散らした実例ひとつばかり。
 郡山藩のご隠居である柳沢信鴻が体験した話である。
 或る日のこと往来を行くと、肥桶がひっくり返り辺り一面が糞尿により溢れた。
 たったいま目の前を歩いていた僧侶や老婆はこれを浴び、憐れにも衣服を汚してしまったのだ。
 この惨状をみた信鴻は、少し後ろを歩いていたおかげで災難に遭わずに済んだと安堵の気持ちを日記に残している。


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左)肥桶を担いだ馬が膝を折り、大切な中身をひっくり返してしまった。肥取りは慌てて桶を起こそうと駆け寄り、辺りの人々は一様に鼻をつまむのであった。
右)いまでこそビルが建ち並ぶオフィス街の丸の内も、その昔は天秤棒に肥桶を担ぐ肥取りの姿がみかけられた。



 次も面白い話なので紹介しておきたい。
 やはり多くの人が行き交う往来での出来事。
 本来ならば肥桶には蓋をしなければならない決まりがあったようで、これを守らず桶を担いでいた肥取りをみかけた侍が咎めた。
 そこで、つい義憤にかられ厳しく罵しれば、肥取りはたまらず逃げ去ってしまった。
 後に残されたのはなみなみと糞尿をたたえた肥桶である。
 今度はそれをいったい誰が処分するかで問題となった。
 すると番所は何の非もない侍に片付けるよう命じ、侍はしかたなくこれに従わざるを得なかった。
 何とも理不尽な話で、この話のオチは「怒りも過ぎれば、かえって禍となる」と、何事もほどほどにと教訓めいた内容で結ばれている。

 さて、神田明神下の長屋の一件であるが、あれは小噺のネタで実際は管理者である大家に所有権があった。
 そして年間契約した肥取りが定期的に訪れ、金銭や収穫した野菜など見返りとして置いていったのである。
 ところで江戸時代の大家は地主から雇われた身分であり、その給金が維持管理費も含め二十両ほどで、肥取りから入る代金はその倍ほどのかなりの収入を占めていたらしい。
 また野菜ならば干大根五十本と取引されていた記録もある。
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