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 “火事と喧嘩は江戸の花”という言葉に、誰しも聞き覚えがあるはずだ。
 時代劇が大好きという方なら、北島三郎を頭とした“め組”の纏を高々と掲げた町火消しの粋な姿が即にでも浮かぶことだろう。
 実際に江戸の街は火事をはじめ常に風水害に悩まされ続けた都市であった。
 その中でも明暦三年(1657)の大火は、江戸市中のほぼ全域をのみ尽くし、焼死者は十万人に及んだと伝えられる。

 以前に発掘調査をした港区芝田町五丁目町屋跡遺跡にも、そうした被災状況を物語る痕跡が多々認められたのを思い出す。
 例えば掘り下げた土層断面を観察すると、被熱作用により赤く焼けた層が幾重にも存在する。
 もちろん炭化した木片も集中している。
 こうした層が深さ2メートル下まで確認され、焼け跡を整地する度に嵩上され新たに生活面を形成してきたことが理解できる。
 発掘はこうした数次の生活面を、上層から一枚づつめくるように掘削するのである。
 当然、掘り下げるにしたがい時期は古くなる。

 さて、この遺跡の性格を簡単に紹介しておくと、古地図上では旧東海道に面した位置にあり、町屋が形成されていたことが分かる。
 特に興味深いのは街道筋に面した側には土蔵跡が見られ、大店を構えた富裕層の居住空間であることが推測される。
 その裏側には、長屋が軒を連なれ、庶民層の空間が広がる。
 長屋跡の路地には木樋の排水溝と、その奥には井戸やゴミ捨場が設けられている。
 そして幾つものゴミ穴が掘っては埋められ、中からは古伊万里や古瀬戸をはじめとした多量の陶磁器片や、サザエやハマグリの殻、獣骨や魚骨など食べかすがまとまって出土する。
 まさに江戸は一大消費地として、全国津々浦々からあらゆる物資がもたらされていたことを証明するかのようである。

 それは江戸から東京へと150年の時間を経た現代社会でも、ゴミ問題や災害への危機感は同じ悩みの種となっている。
 隙間のないほどの遺構の密集度にも、21世紀を生きる我々とさほど変わらぬ息苦しい住環境に生きた先人を思うと、同情にも似た親近感すら覚えてしまう。

幕末面の調査風景_convert_20140629144621


 しかし、災害の度に見事に街を復興させていく逞しさには、大いに見習うべきものがある。明暦の大火は開府以来の中世的都市を一掃し、代わって都市計画に基づいた新たな近世都市を出現させることになった。新生の高らかな槌音は地方からも多くの人々を招き寄せ、江戸は一気にその市街地を広げることになる。
 そして次に迎える元禄期には町人の豊かな経済力を背景とした、浮世絵や歌舞伎や浄瑠璃など市井の文化の華を開かせ今日に至るのである。
 
 都市として東京の姿は常に変化し続ける。
 6年後には東京オリンピックも控え、勢いはさらに加速してゆく。
 そうした未来志向の世相とまるで逆行するように、私は来月から江戸時代の遺跡を掘ることになる。
 そこに埋れているタイムカプセルを開けることにしよう。
 過去と現代を、さらに未来へと遥かな時間軸を紡ぎに、朝の混雑する通勤電車に押し合い圧し合い揺られ、いにしえの江戸の町に、いざトリップ トリップ。
 
 




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   宵の闇 ホタルブクロを 覗きいる

  花袋 片手提げにて 傾ぐ顔

  螢狩り 花に囲いて 夕涼み

  夕闇に 花も焦がしぬ 螢火よ



 ホタルブクロの花が木陰で気持ち良さそうに揺れる。
 その姿形から別名を釣鐘草とも言い、可愛らしい花がぶら下がるようにして咲く。
 それにしてもホタルブクロとは気になる名前で、調べてみるとこの花の中に蛍を入れて楽しんだことに由来はするようだ。
 何とも風情ある遊びであろうか。
 薄紫の花を透かして灯る蛍の光を思うと、いつの日か試してみたくもある。
2014.06.10 七変化


降り飽きぬ 虹も溶け出づ 七変化

 雨が降るたびに色彩を変え、常に目を楽しませてくれる紫陽花。
 咲きはじめの頃は葉緑素の影響で薄黄色だったのが、土壌に含まれる酸性濃度によって色が変わるというのはご存知だろうか。
 つまりph値が高ければ青色に、逆にアルカリ性なら赤色に染まる性質がある。
 まるでリトマス紙みたいに… (但し化学反応の色は逆になる)
 だから古来より“七変化”や“八仙花”の別名も持つ。

 そしてあの鮮やかに咲くのは花びらではなく、萼の部分と言うからまた面白い。
 もし満開の紫陽花を見かけたら「まあ、綺麗なお花ね」と決して言ってはならない。
 「おお、何と立派な萼であることか」と言わねばならないのである。
 このように親しまれている紫陽花であるが、原産地は日本で海外で観賞用として品種改良され種類も多いことでも知られている。

 ところで最初に海外に紹介したのはシーボルトと言われ、日本では“おたくさ”と呼ばれていると紹介してる。
 しかし、どの文献を探してもこのおたくさの名は見当たらない。
 実はこれには訳があり、シーボルトは妾の“お滝”の名前に因み新たに命名した節がある。
 つまり“おたきさん”が“おたくさ”に訛ったものなのだ。
 この公私混同に異議を唱えたのが日本が誇る植物学者の牧野富太郎である。
 ところがどうしたことか負けじと、新種の笹に“スエコザサ”と妻の名前を付けたからまたまた面白い。
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 ここにもうひとり、丸橋忠弥についても話をしてみたいと思う。
 この人物も其角と同じ境内に眠り、 しかも墓はお隣どうしという縁だが、両人ともまったくもって接点はなく、生きた世代も違う。
 さて、ここにこうして名前をあげてみたが、いったいどんな人物であったか記憶の糸は限りなく細くおぼつかない。
 だが、由井正雪に関係したと言えば、なんとなく時代背景や何をしたのかぐらい縁取りが見えてきそうである。
 そう、慶安四(1651)年に起きた“由井正雪の乱(慶安の変)”に加担し、江戸の襲撃を受け持ったのが忠弥なのである。

 まずはこの乱の事について触れておくと、江戸幕府の相次ぐ藩の取り潰しにより 巷には仕官先を失った浪人が溢れかえった。
 これにより強盗などが頻発し、治安が悪化し世の中は不安が増すばかりであった。
 その最たる原因である浪人の救済を目的として、幕政の転覆を企てたというのが乱の真相とされている。
 しかし計画そのものはかなり無謀なもので、まずは江戸市中を火の海にしておいて、混乱に乗じて老中をはじめ主だった幕閣を襲撃する手筈であった。
 一方の正雪は京都において御所にいる天皇を吉野に担ぎ出し、そこで幕府を討つ勅命を賜ろうとしていた。
 さらに大阪でも同志である金井半治が狼煙をあげ、今風に言ってしまえば同時多発テロの様相を呈する。

 クーデターとしての見かたもあるが、火を放ち関係のない人々まで巻き込むあたりはいずれにしろ迷惑千万なものに違いない。
 ところが同時代の人々は、乱が鎮まった後に彼らを英雄として祭り上げた。
 それは浄瑠璃や歌舞伎の舞台においてであり、『慶安太平記』として前々代の鎌倉幕府が倒された時に擬えて、徳川の悪政を揶揄する形で描かれている。
 ちなみに正雪は元々町人の出身であったが、楠木正成の子孫と称する軍学者に弟子入りし、その才能を見込まれ婿養子になったと伝わる。
 一時は楠木姓を名乗ることもあったようだが、鎌倉幕府を倒した貢献者のひとりに関連づけられるのは偶然と言うべきものなのであろうか。
 忠弥にしても関ヶ原の戦いで西軍に組みし家康に敗れ、改易になった後も大坂の陣で再度反旗を翻して、最後には刑場の露と消えた土佐の大名長宗我部盛親の落胤という流説もあるほどだ。
 とりあえず話の真偽のほどは別にして、こうした因縁で語られる背景には、やはり幕政に対する人々の鬱屈した不満があったからだろう。

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     「掘端」の段
 忠弥は世間を欺くために酒浸りの日々
 左は中間姿で泥酔したふりをして、江戸城の堀に小石を投げ入れ煙管片手に耳をすます見栄が見所の名場面
 右はそれを訝しむ松平伊豆守


 それでは乱の結末は如何に。
 まあ、よくある話で同志に裏切り者が出て計画は露見し、忠弥は寝込みを襲われあえなく捕縛されてしまう。
 その時の様子が家火だという騒ぎに屋根伝いに逃げたところ、待ち構えていた捕方に御用と相成った訳だ。
 本来は宝蔵院流の槍の名手として聞こえが高く、捕方はかなり用心していたのだが、慌てていたために槍は置き去りにしてきたらしい。
 そして取り調べられた後に鈴ケ森の刑場で斬首と、死際まで盛親に倣うことはないものをと思うばかりである。
 今でも文京区本郷に忠弥坂と呼ばれる地名が残されており、この坂の上辺りに忠弥が開いていた道場があったそうで、いかに庶民には親しまれていたかが窺える。
 それと正雪の方だが、こちらも京都に向かう途中の駿府の宿で捕方に囲まれ、観念して自刃して果てた。
 これまた正成の湊川の戦いと似ており、足利軍に囲まれ自害する最後に、こうなると皮肉の連鎖と言うしかない。

 しかしである・・・
 世の中に不満が渦巻くと楠木正成や長宗我部盛親など、前代の亡霊がひょっこり顔を覗かせると言うのも、歴史というものが常に生きているからこその証なのかも知れない。
 と言いつつグローバル化が進む複雑怪奇、そして混沌たる現代社会に生きる私たちには、いったいどなたが降臨されることやら、こちらも興味深々なものなのである。
2014.06.04 グミを噛む
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    口すぼめ 紅の舌先 グミを噛む
    
 紅く熟したグミの実。
 子供の頃に競って採ったものであるが、面倒になると枝ごと折り摘まんだりもした。
 しかし見かけは美味しそうではあるが、噛み潰した瞬間に甘みと共に渋みと酸っぱさが同時に口中に広がる。
 それでも自分の手で採る楽しみもあり、里山に見つけては仲間と大騒ぎしたものであった。

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 四月から通う発掘現場には数少ない本数のバスの都合で、どうしても早起きして通わねばならない。
 早く着いて余った時間は、周辺を散策などしながら草花の写真を撮ったり、史跡など訪ねて回ることにしている。
 気紛れで行き当たりばったり、たまに飽きればでわざわざ遠回りなどして行く。
 そんなある時、少し遠くの方に立派な寺の構えが見え隠れする。
 興味を覚えつつ近づいてみれば、門前に史跡と彫られた石柱が目にとまる。
 さらに続けてその下には、あまり馴染みない人物の名前が深々とある。

 その寺の名前は富士山上行寺と号する。
 元々の縁起は古く相模国小田原に開創したものだが、家康が江戸にはいるころになると桜田、八丁堀銀座、芝伊皿子、芝二本榎と転々と場所を変えている。
 そしていよいよ昭和も戦後に至れば、再び相模は伊勢原へと移ってきた。
 そうしたことから本来は江戸で葬られた人物の墓もこちらに移築しているようだ。
 面白いのは俳人の室井其角である。
 其角は松尾芭蕉に師事し、師の臨終に際しては『芭蕉翁終焉記録』を綴った人物で、江戸庶民の間では人気が高かったらしい。

 ここに面白いエピソードがある。
 後の赤穂義士ひとりに数えられる大高源吾に、両国橋で偶然に出会った時の話である。
 その時の源吾の姿は、煤払いの笹竹売りに身をやつし糊口をしのぐ態であったが、間もなく西国のと或る家中への仕官が決まったことを告げた。
 そこでかねてより知り合いであった其角は、餞別にこう歌で問いかけた。
   「年の瀬や 水の流れと 人の身は」
 これに源吾は付句で応える。
   「あした待たるる その宝船」
 何とも意味ありげな歌ではないか。
 討ち入りは間近と言う事を案にほのめかしているのである。
 もちろん其角はその意味を理解したと言う。

 さて、折角なので源吾についてもいま少し話を続けさせて貰いたい。
 あの討ち入り直前の笹竹売りは、吉良邸の様子を探索するまさに仮の姿であった。
 そして両国橋の一件から間もなくして、上野介の首をあげ無事に本懐を遂げることになる。
 その時にも一句を詠んでいる。
   「山を裂く 刀も折れて 松の雪」
 未明より降り積もった雪の夜の吉良邸。
 攻める赤穂四十七士と必死に守る吉良家臣団が、敵味方共に白刃を振りかざし入り乱れる壮絶な様子が、短いなかにもよく物語られている。
 また、幕府の命により切腹して果てる時の辞世の句も残されている。
   「梅で呑む 茶屋もあるべし 死出の山」
 源吾は子葉の雅号を持ち、江戸俳諧の人々とも積極的に交流していたとも伝えられ、いかに風流人であったかが窺い知れよう。

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 ついでながら両国橋での一件は、後に『松浦の太鼓』として歌舞伎で演じられるようになった。
 また講談でも語られ、物語は単純明快な人情ものとして人気のある作品に仕上がっている。
 ついでのついでながら源吾の子孫に大高又次郎なる人物がいる。
 又次郎は勤王の志士であり、池田屋事件で新撰組に襲撃され命をおとした人物だ。
 それは赤穂義士の討ち入りから161年を経ての出来事であったが、まったく逆転した立場で歴史に名を刻むことになってしまった。
 さらに新撰組隊士の着るダンダラ模様(袖口が山形)の羽織が、あの赤穂義士が着用したものを参考にしていたとは何とも皮肉と言わざるを得ない。

 などなど其角に始まり書き綴ってみれば、遥か時空を超えて又次郎までたどり着く、歴史とはつくづく巡りめく奇なものである。


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