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 ここにもうひとり、丸橋忠弥についても話をしてみたいと思う。
 この人物も其角と同じ境内に眠り、 しかも墓はお隣どうしという縁だが、両人ともまったくもって接点はなく、生きた世代も違う。
 さて、ここにこうして名前をあげてみたが、いったいどんな人物であったか記憶の糸は限りなく細くおぼつかない。
 だが、由井正雪に関係したと言えば、なんとなく時代背景や何をしたのかぐらい縁取りが見えてきそうである。
 そう、慶安四(1651)年に起きた“由井正雪の乱(慶安の変)”に加担し、江戸の襲撃を受け持ったのが忠弥なのである。

 まずはこの乱の事について触れておくと、江戸幕府の相次ぐ藩の取り潰しにより 巷には仕官先を失った浪人が溢れかえった。
 これにより強盗などが頻発し、治安が悪化し世の中は不安が増すばかりであった。
 その最たる原因である浪人の救済を目的として、幕政の転覆を企てたというのが乱の真相とされている。
 しかし計画そのものはかなり無謀なもので、まずは江戸市中を火の海にしておいて、混乱に乗じて老中をはじめ主だった幕閣を襲撃する手筈であった。
 一方の正雪は京都において御所にいる天皇を吉野に担ぎ出し、そこで幕府を討つ勅命を賜ろうとしていた。
 さらに大阪でも同志である金井半治が狼煙をあげ、今風に言ってしまえば同時多発テロの様相を呈する。

 クーデターとしての見かたもあるが、火を放ち関係のない人々まで巻き込むあたりはいずれにしろ迷惑千万なものに違いない。
 ところが同時代の人々は、乱が鎮まった後に彼らを英雄として祭り上げた。
 それは浄瑠璃や歌舞伎の舞台においてであり、『慶安太平記』として前々代の鎌倉幕府が倒された時に擬えて、徳川の悪政を揶揄する形で描かれている。
 ちなみに正雪は元々町人の出身であったが、楠木正成の子孫と称する軍学者に弟子入りし、その才能を見込まれ婿養子になったと伝わる。
 一時は楠木姓を名乗ることもあったようだが、鎌倉幕府を倒した貢献者のひとりに関連づけられるのは偶然と言うべきものなのであろうか。
 忠弥にしても関ヶ原の戦いで西軍に組みし家康に敗れ、改易になった後も大坂の陣で再度反旗を翻して、最後には刑場の露と消えた土佐の大名長宗我部盛親の落胤という流説もあるほどだ。
 とりあえず話の真偽のほどは別にして、こうした因縁で語られる背景には、やはり幕政に対する人々の鬱屈した不満があったからだろう。

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     「掘端」の段
 忠弥は世間を欺くために酒浸りの日々
 左は中間姿で泥酔したふりをして、江戸城の堀に小石を投げ入れ煙管片手に耳をすます見栄が見所の名場面
 右はそれを訝しむ松平伊豆守


 それでは乱の結末は如何に。
 まあ、よくある話で同志に裏切り者が出て計画は露見し、忠弥は寝込みを襲われあえなく捕縛されてしまう。
 その時の様子が家火だという騒ぎに屋根伝いに逃げたところ、待ち構えていた捕方に御用と相成った訳だ。
 本来は宝蔵院流の槍の名手として聞こえが高く、捕方はかなり用心していたのだが、慌てていたために槍は置き去りにしてきたらしい。
 そして取り調べられた後に鈴ケ森の刑場で斬首と、死際まで盛親に倣うことはないものをと思うばかりである。
 今でも文京区本郷に忠弥坂と呼ばれる地名が残されており、この坂の上辺りに忠弥が開いていた道場があったそうで、いかに庶民には親しまれていたかが窺える。
 それと正雪の方だが、こちらも京都に向かう途中の駿府の宿で捕方に囲まれ、観念して自刃して果てた。
 これまた正成の湊川の戦いと似ており、足利軍に囲まれ自害する最後に、こうなると皮肉の連鎖と言うしかない。

 しかしである・・・
 世の中に不満が渦巻くと楠木正成や長宗我部盛親など、前代の亡霊がひょっこり顔を覗かせると言うのも、歴史というものが常に生きているからこその証なのかも知れない。
 と言いつつグローバル化が進む複雑怪奇、そして混沌たる現代社会に生きる私たちには、いったいどなたが降臨されることやら、こちらも興味深々なものなのである。
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