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 “ケンカ大六”なる人物をご存じであろうか。
 考古学の世界では知る人ぞ知るのだが、たぶん若い研究者にはピンとこないだろう。
 かく言う私も面識はない。
 されど彼を知る人から話を聞くと、とても気難しく近寄りがたい、孤高のイメージしか伝わってこない。

 何故にこういう話をするかというと、今日は春分の日である。
 その春分を簡単に説明すれば、ほぼ昼と夜の長さがほぼ同じとなる。
 そしてこちらもほぼ東から登った太陽がほぼ西へと沈む日なのだ。
 故に農耕民族にとって春分の日とは、作物を育てる目安として大切な節目といえる。

 冬の長い眠りからようやく醒め、そろそろ作付けをしても大丈夫だと保証してくれるのが春分の日なのである。
 この日を境にに昼は徐々に長くなり、夜と逆転する。
 すると植物は芽ぶき、動物は新たな生命を宿す。
 太陽のよみがえりは、本格的な春の訪れを告げる。
 つまり再生という意識がその根底にはあるのだ。
 
 さて、ケンカ大六であるが、本名は原田大六という。
 大正六年に生まれたということで、大六と命名されたらしい。
 福岡県は西部の糸島郡前原町(糸島市)に生まれ、少年時代より土器など太古の遺物に大変な興味を持っていた。
 成人してからもその思いは冷めることなく、ますますと考古学に傾倒していくばかりであった。
 大六の生まれ育った糸島平野は『魏志倭人伝』にも登場する百余国のひとつで、伊都国に比定されるクニが存在した地域でもある。
 当然にそうした遺跡は身近に存在し、この環境の中で遥かいにしえへの夢を紡いでいたに違いない。
 だが、彼には学問を続けるにあたり、正統な後押しというものがなかった。
 つまり地元の中学を卒業しただけで、後は独学で学問を続けてきたのだ。
 だからなのか大学というアカデミズムに対しては、異常と思えるほどの攻撃的な論調をはる。
 例えば著書『万葉革命』の序文では「真理を愛する若い全国の学生諸君に訴える。骸骨がネクタイを締め、背広を着て、教壇に立ち、骸骨万葉学の講義を行い、学生諸君を骸骨化しようとしている」と皮肉るほどだ。

 どうも大六の話が長くなってしまったが、春分について話を戻すことにする。
 1965年に彼の発掘した平原遺跡の成果は、後に大きな問題を提議することになる。
 確認された2世紀後半の割竹形木棺と、その周囲右辺からは37面の銅鏡が出土している。
 その内の5面は直径が50cm弱の大鏡で、国内最大の規格なのである。
 木棺長軸の先には2本の対になる柱(鳥居的なものを想定)を立てたと考えられる穴があり、その更に遠い延長上には日向峠と高祖山を望む。
 遺跡に立つと峠と山が重なり合う箇所は谷間に見え、春分と秋分になると太陽は、必ずこの中心を通ることになる。
 これは暦のなかった弥生時代において、季節を正確に把握する目安となり、経済基盤である稲作の出来具合を左右する重要な役割を果たすことになる。

 大六はこうしたことを想像たくましく、そして実証しようと多くの論文を書いた。
 平原遺跡の被葬者は太陽に深く関連した人物で、『記紀』に登場する神々にまで結びつけようとしたのである。
 当時の学界は戦時の反省から皇国史が排除され、唯物史観が主流を占めていたこともあり、大六の学説は黙殺され続けた。
 それに在野の研究者に対する壁は余りに厚く、そして超えるには高すぎた。
 こうなると彼はますます吼える。
 そして噛みつくしかない。
 相手が高名な大学教授であろうが、真っ向から論調をはり続ける。
 いや、学府の権威者であるからこそ、学問に対して必要以上に真摯な姿勢を望んでいたのかも知れない。
 そして持論は邪馬台国九州説にたどり着く・・・。

 平原遺跡と春分の関連性については、まだまだ多くの実証を要することになるが、ただ弥生人にとっても太陽の運行は大切な行事として意識されていたのは間違いない。
 こうして今日まで受け継がれてきた深層的な意識は、形を変えながらも身近な年中行事として私達の生活にしっかりと根付き、将来においても引き継いでいくべき、民族のかけがえない民俗文化であり考古資料なのである。



 
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