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2014.05.03
山吹の里

「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだに無きぞ悲しき」
この歌は醍醐天皇の皇子である中務卿兼明親王の作と伝えられてます。
しかしどちらかと言えば、太田道灌にまつわる逸話として知る人が多いのではないでしょうか。
私は仕事がら日本全国に足を運ぶ機会が多く、それこそ名すら知ることもなかった小さな村から、地方の中核都市までと行脚の日々が続く。
その中でも初めて訪れる土地は妙に楽しみなもので、まるで子供の頃の遠足のように胸をときめかせてしまうものだ。
そこでの出会いや発見もまた大切な思い出となり、こうしたことを通して学んだものは何よりの財産として刻まれてきた。
今は神奈川県の伊勢原に通う毎日だ。
自宅を早朝に出て一時間半の八時前に目的の場所へとたどり着く。
途中電車を2回乗り継ぎ、更に中高年の登山客に混じりバスに揺られゆく。
そこは山裾に広がる小さな集落で、この季節ならではの色とりどりの春の花々が目を楽しませてくれる。
バスは本数が少ないのでどうしても早い便に乗るしか都合がつかず、おかげで余った時間は散策がてらブラブラしながら現場へと向かうのが新たな日課となった。
肩からカメラをぶら下げて里道や庭先、神社の境内と咲き並ぶ花を撮って歩く。
これだけでも眠い目をこすり、早起きした甲斐があると言うものである。
さて、本題の道灌の話をしよう。
冒頭の歌は道灌が鷹狩の帰りにわか雨にあい、近くの農家で蓑を借りようとした際のこと。
家の中から出てきたのはひとりの娘で、ただ黙って山吹の花を差し出した。
すると道灌はこの思わぬ非礼に腹ただしくなり、雨の降り注ぐのも構わずその場を後にした。
そうした出来事を或る家臣にしたところ、あの娘の胸の思いをこう諭してくれたのである。
「私の家は貧しく、生憎とお貸し出来る蓑などありません。ですのでどうかこの歌に免じて恥をうううお許しください」
つまり歌の中に出てくる“実の”を“蓑”にかけていたのだ。
それからの道灌は、己の無知を恥じて学問に勤しみ、死後も文武両道の鑑として崇められるまでに至った。
戦をさせれば八面六臂の活躍で敵を全く寄せつけず。
また和歌を詠ませれば、宮中の雅人にも劣らぬほどであったと伝えられる。
その一端を垣間見るような、奥ゆかしく洒落た逸話として、先の歌と道灌の話は語り継がれてきた。
しかし世の中とは何が因果するか不可思議なもの。
時にしてあり余る才気は逆に厄を招くことも多々あるものだ。
道灌のそうした非凡なるものは怖れられ、時には疎まれ非業の死を迎えねばならい運命を用意していた。
それは関東管領であり主君の上杉家に謀反のあり猜疑をかけられ、館に誘い出され油断していたところを襲われるという無念の結末である。


少しばかり話が長くなってしまったが、私が乗り降りするバス停は“道灌塚前”である。
そう、この辺りに道灌が刃の露と消えた館跡の比定地があり、毎朝散策する途中にその墓も実在する。
そうしたことを物語るかのように、いま発掘している遺跡から出土する遺物に、当時高価で権力者にしか持ち得ない貿易陶磁器の小さな破片がある。
こんな何もなさそうな静かな土地にも思わぬ歴史が残され、それに不意に出逢えたことの驚きは鮮明なる記憶として、アルコール漬けのやや劣化しつつあるこの脳細胞にまたひとつ刻まれることになった。
それにこの辺りでは山吹の可愛らしい黄色い花もよく見かけるが、これも我が心象風景として永くとどまることになるはずである。

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誠くん
小学生の頃、川崎に住んでいて、夢見が崎公園に何度か自転車で行きました。動物園もあったような・・・。太田道灌の史跡と聞いて、縁の地だったことを思い出しました(きっと説明板を見たんだと思います)。
2014/05/05 Mon 19:02 URL [ Edit ]
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