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 四月から通う発掘現場には数少ない本数のバスの都合で、どうしても早起きして通わねばならない。
 早く着いて余った時間は、周辺を散策などしながら草花の写真を撮ったり、史跡など訪ねて回ることにしている。
 気紛れで行き当たりばったり、たまに飽きればでわざわざ遠回りなどして行く。
 そんなある時、少し遠くの方に立派な寺の構えが見え隠れする。
 興味を覚えつつ近づいてみれば、門前に史跡と彫られた石柱が目にとまる。
 さらに続けてその下には、あまり馴染みない人物の名前が深々とある。

 その寺の名前は富士山上行寺と号する。
 元々の縁起は古く相模国小田原に開創したものだが、家康が江戸にはいるころになると桜田、八丁堀銀座、芝伊皿子、芝二本榎と転々と場所を変えている。
 そしていよいよ昭和も戦後に至れば、再び相模は伊勢原へと移ってきた。
 そうしたことから本来は江戸で葬られた人物の墓もこちらに移築しているようだ。
 面白いのは俳人の室井其角である。
 其角は松尾芭蕉に師事し、師の臨終に際しては『芭蕉翁終焉記録』を綴った人物で、江戸庶民の間では人気が高かったらしい。

 ここに面白いエピソードがある。
 後の赤穂義士ひとりに数えられる大高源吾に、両国橋で偶然に出会った時の話である。
 その時の源吾の姿は、煤払いの笹竹売りに身をやつし糊口をしのぐ態であったが、間もなく西国のと或る家中への仕官が決まったことを告げた。
 そこでかねてより知り合いであった其角は、餞別にこう歌で問いかけた。
   「年の瀬や 水の流れと 人の身は」
 これに源吾は付句で応える。
   「あした待たるる その宝船」
 何とも意味ありげな歌ではないか。
 討ち入りは間近と言う事を案にほのめかしているのである。
 もちろん其角はその意味を理解したと言う。

 さて、折角なので源吾についてもいま少し話を続けさせて貰いたい。
 あの討ち入り直前の笹竹売りは、吉良邸の様子を探索するまさに仮の姿であった。
 そして両国橋の一件から間もなくして、上野介の首をあげ無事に本懐を遂げることになる。
 その時にも一句を詠んでいる。
   「山を裂く 刀も折れて 松の雪」
 未明より降り積もった雪の夜の吉良邸。
 攻める赤穂四十七士と必死に守る吉良家臣団が、敵味方共に白刃を振りかざし入り乱れる壮絶な様子が、短いなかにもよく物語られている。
 また、幕府の命により切腹して果てる時の辞世の句も残されている。
   「梅で呑む 茶屋もあるべし 死出の山」
 源吾は子葉の雅号を持ち、江戸俳諧の人々とも積極的に交流していたとも伝えられ、いかに風流人であったかが窺い知れよう。

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 ついでながら両国橋での一件は、後に『松浦の太鼓』として歌舞伎で演じられるようになった。
 また講談でも語られ、物語は単純明快な人情ものとして人気のある作品に仕上がっている。
 ついでのついでながら源吾の子孫に大高又次郎なる人物がいる。
 又次郎は勤王の志士であり、池田屋事件で新撰組に襲撃され命をおとした人物だ。
 それは赤穂義士の討ち入りから161年を経ての出来事であったが、まったく逆転した立場で歴史に名を刻むことになってしまった。
 さらに新撰組隊士の着るダンダラ模様(袖口が山形)の羽織が、あの赤穂義士が着用したものを参考にしていたとは何とも皮肉と言わざるを得ない。

 などなど其角に始まり書き綴ってみれば、遥か時空を超えて又次郎までたどり着く、歴史とはつくづく巡りめく奇なものである。


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