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 「歴史を忘れた民族に未来はない」
 このような意味の横断幕がハングルで大きく掲げられたのは、2013年7月28日に韓国で行われたサッカーの東アジア杯決勝での出来事であった。
 試合は2 対1 で日本チームが優勝したものの、実に後味の悪いものとなった。

 そして今月初めのこと、中国の習近平国家主席が韓国を訪問し、朴槿恵大統領 と両国の発展的な未来について会談した。
 その互いに満面の笑みで握手を交わす姿は、新たな東アジア史を予感させる印象を内外に広く伝えることになった。
 国同士が友好を育むのは決して悪いことではない。
 しかし互いの腹の中は複雑なはずである。
 特に朝鮮民族にすれば、宗主国の名のもと中国から支配され続けてきた屈辱の歴史があるからに他ならないからだ。

 確かに我が国日本も、西欧諸国に追いつけと急速に近代的文化を推し進めるなかで朝鮮国を併合した。
 他国を侵略することはどんな理由があろうと許されることではない。
 しかしあの時に無理にでも大陸に兵を出していなければ、勢いづいたロシアは南下して朝鮮半島に社会主義国家を誕生させたはずである。
 そしてその余波は日本にも及ぶ危険性すらあった。
 こうした意見は資本主義側の都合よい勝手な言い分かも知れない。
 それでもこれまで西欧諸国がやってきた植民地政策と、日本の統治方法は全く異なっていた。
 つまり一方的に搾取するのではなく、立ち遅れていた学校や鉄道などインフラの整備事業も積極的に行ったのも事実であった。
 歴史は忘れてはならない。
 栄光の歴史があれば、屈辱の歴史もある。
 それら紡がれてきた全てが歴史であり、民族のいや人類の誇りと戒めにするべきものだと信じている。

 話をはじめに戻そう。
 あの習主席は韓国訪問中にソウル大学で、学生を前に特別に講演を行った。
 ここで壬辰・丁酉倭乱のことを持ちだした。
 これを日本では文禄・慶長の役と呼んでいる。
 国内を統一した豊臣秀吉の次なる野望は大陸への進出であった。
 ひとりの驕り高ぶった老害の独裁者は、両国の多くの人々を悲劇に巻き込んだのでしまった。
 習主席は話を続ける。
 朝鮮半島全土が日本の将兵に席巻され尽くした時に、これに援軍を指し向け退けたのが当時の明国であると・・・。
 こうして両国が協力し共通の敵に対したことから、今の反日感情は長い時間をかけ共有されてきた堅いものだと韓国のニュース結ぶ。
 だが事実は都合よく歪曲されていることに気づかねばならない。
 明国の目的は国境付近まで迫った日本軍への危機感からであり、朝鮮に対しての義など見出すのは難しい。
 このまま侵略を許せば、大国としての沽券にも係わる。
 それにちょうど王朝の勢いにも翳りが見え始めた時期も重なり、水際でくい止めたい思いとまさに内憂外患の状態に、援軍はよこしたはいいが常に消極的な戦いに終始せざるを得なかった。
 日本軍とて戦が長期化し戦線が長く延びたことで物資の補給が困難となり、将兵の間には厭戦気分が蔓延していた。
 そうした互いの事情から講和が結ばれるのだが、当事者であるはずの朝鮮国は蚊帳の外というおかしな構図であった。
 これは日本軍が上陸してから僅か20日で朝鮮国王を都からを追い出し、以来転々と逃亡し続けたるなかでの更なる辱めであったに違いない。
 それもこれも両班体制の名の下で貴族階級が富と名声を独占し、さらに世襲し続けた結果がやがて国への信任を失墜させ、人心を乖離させてしまったことに気づかねばならない。
 1592年4月12日に一番体の小西行長が釜山に上陸したのを最初に、15万の将兵は先を争い王のいる漢城へと迫るのであるが、途中において朝鮮側の抵抗らしいものはほとんどなかったと伝えられる。
 むしろ戦う前に逃げ出し、中には投降する者も多かったらしい。
 圧政に虐げられ続けた民衆は日本軍に協力し道案内をしたり、或いは役所や貴族階級の屋敷を躊躇いもなく襲い略奪の限りを尽くした。
 漢城とて例外でなく、日本軍が入った時にはすでに財宝など待ち去られた後であった。
 さらに潜伏中の王子を加藤清正に差し出したのは、朝鮮国の官僚というのは哀れむべき事実である。

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 私は以前に兵站地として国内に築かれた肥前名護屋城跡の文化財保護をしていた。
 その関係で韓国にもそれらの痕跡を訪ね、地図を片手に今は公園となってしまった敷地を、倭城と呼ばれる石垣を捜して回るなどした記憶がある。
 だがそれらしきものを発見するのは実に難しかった。
 そしてようやく見つけたのが花壇に横一列に積まれた側石で、そこには案内板すら見当たらず困惑した思いがある。
 しばらくしてこうした史跡の保存が日本の研究者側から問題とされた。
 きっかけになったのが倭城の残る土地での開発計画で、消滅してしまう危機に曝されたからである。
 もちろん韓国の研究者も危惧は覚えたらしいが、大きな保存運動まで至らなかったように聞き及んでいる。
 そのくせ最近になり自国の手で造ったはずの李舜臣の銅像に、難癖をつけ始めているのには失笑せざるを得ない。
 舜臣はあの戦で活躍した朝鮮水軍の将で、連戦連敗するなかで唯一の希望として果敢に前線に立ち続け、そして斃れたいわば英雄である。
 その全身を甲冑で身を包み、大きな刀を片手に遥か遠くを睨む勇士は、銅像として韓国内の至るところに見かけることができる。
 それが物議をかもしていると言うのだ。
 あの刀はどうも日本刀のようであると、不自然さより不快な感情を与えているようである。
 そればかりでなく甲冑は中国式のものだと言い、どこをとってもオリジナリティーがないことにヒステリックな反応しているとしか思えない。

 「歴史を忘れた民族に未来はない」の言葉を今一度思い起こしてもらいたい。
 ここであえて問おう。
 歴史の中に埋もれている本質を捉えようとはせず、体面ばかり気にする民族にこそ未来はあるのだろうか。
 私は政治家でもなければ思想家でもない。
 ただ歴史に携わるのを生業にしており、だからこそイデオロギーやこれについての善悪、はたまた宗教や個人的な感情など一切を慎み、過去に起こった事象を客観的に分析するのを心掛けている。
 何故なら歴史とは人類が正しく歩むべき道を指し示してくれる羅針盤であるからこそ、そこに不純な概念を持ち込み妙な化学反応を起こさせてはならないからである。
 ところで400年前に起こった東アジアの歴史が、果たして〝乱〟なのか〝役〟だったか、この一文字の違いにも日韓の歴史的背景が如実に現れているような気がしてならない。
 乱とは中国を宗主国とした広いアジア地域内での内乱を指し、役は日本国内における内紛のようにも印象づけられる。
 乱も役もいずれも本質的な表現とは言えず、これは国と国との間で行われた戦争であったはずである。
 些細なことかも知れないが隣国の横暴な振舞いをただ咎めるだけではなく、自国の歴史にもきちんと向き合い再認識しておかねばならない。
 無知なる歴史を声高々に振りかざしては、自身の品格を貶めるような同じ轍を踏まぬために。
 そして何よりも発展的な未来を語り合えるために。
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