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 天下の日本橋を駄馬にまたがりウトウト居眠りをする肥取り。それを周囲の人々は「落ちるぞ落ちるぞ」とあれよあれよ囃したてる。よく見れば鞍には糞尿をいっぱい溜めた肥桶がくくり付けられているではないか。もし落馬でもされたら、あわや中身をぶち撒けてしまいかねない大惨事だ。
 

 時はいまをさかのぼること二百年ほど前。
 場所は花のお江戸でも庶民が多く暮らす神田は明神下辺りの貧乏長屋でのこと。
 そこでちょっとした騒ぎが起こった。

 何でも共同の厠に溜まった糞尿について、いったい誰のものかで大家と店子が睨みあっているのだ。
 「これはわし達の尻から出たものだから店子のもの」と言い張れば、「そこの厠はあたしの管理しているものだよ」と負けずに大家もやりかえす。
 どちらも全く引く気配が感じられない。

 それもそのはず。
 何しろ汲み取られる糞尿にはお金がかかっているから、そう簡単に諦める訳にはいかない。
 それは現代社会でも同じことのように聞こえるが、しかし江戸時代は今とは立場が逆で金銭を支払い汲み取ってもらうのではなく、貰えるのである。
 だからその所有権をめぐり、どちらも後に引けないのだ。

 百万の人口が集中する江戸はまさに宝の山である。
 汲み取られたものは近郷の農家まで運ばれ、そこで畑に撒かれ下肥となる。
 そして百姓ばかりでなく、こうした流通を専門の業とする肥取りもいたらしい。
 では、どのように運ぶかは天秤棒の両端に肥桶を吊るし担ぐスタンダードなものから、馬に背負わせる方法などが知られている。

 しかし誤ってひっくり返したりでもすればそれこそ大変なことだ。
 余談ながら文献には、こうした笑うに笑えない話が数多く散見するから面白い。
 まずは多くの人々が往来する路上で、見事に撒き散らした実例ひとつばかり。
 郡山藩のご隠居である柳沢信鴻が体験した話である。
 或る日のこと往来を行くと、肥桶がひっくり返り辺り一面が糞尿により溢れた。
 たったいま目の前を歩いていた僧侶や老婆はこれを浴び、憐れにも衣服を汚してしまったのだ。
 この惨状をみた信鴻は、少し後ろを歩いていたおかげで災難に遭わずに済んだと安堵の気持ちを日記に残している。


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左)肥桶を担いだ馬が膝を折り、大切な中身をひっくり返してしまった。肥取りは慌てて桶を起こそうと駆け寄り、辺りの人々は一様に鼻をつまむのであった。
右)いまでこそビルが建ち並ぶオフィス街の丸の内も、その昔は天秤棒に肥桶を担ぐ肥取りの姿がみかけられた。



 次も面白い話なので紹介しておきたい。
 やはり多くの人が行き交う往来での出来事。
 本来ならば肥桶には蓋をしなければならない決まりがあったようで、これを守らず桶を担いでいた肥取りをみかけた侍が咎めた。
 そこで、つい義憤にかられ厳しく罵しれば、肥取りはたまらず逃げ去ってしまった。
 後に残されたのはなみなみと糞尿をたたえた肥桶である。
 今度はそれをいったい誰が処分するかで問題となった。
 すると番所は何の非もない侍に片付けるよう命じ、侍はしかたなくこれに従わざるを得なかった。
 何とも理不尽な話で、この話のオチは「怒りも過ぎれば、かえって禍となる」と、何事もほどほどにと教訓めいた内容で結ばれている。

 さて、神田明神下の長屋の一件であるが、あれは小噺のネタで実際は管理者である大家に所有権があった。
 そして年間契約した肥取りが定期的に訪れ、金銭や収穫した野菜など見返りとして置いていったのである。
 ところで江戸時代の大家は地主から雇われた身分であり、その給金が維持管理費も含め二十両ほどで、肥取りから入る代金はその倍ほどのかなりの収入を占めていたらしい。
 また野菜ならば干大根五十本と取引されていた記録もある。
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 『北斎漫画』に描かれた、上野の山の辻雪隠。
 突然にお腹を壊し、慌てて駆けこんだ先は、江戸時代における公衆トイレ。
 半戸の外で待つ下僕達は、あまりの臭いに鼻をつまみ、主人が出てくるのを外で待つのである。


 つい先日のこと11月19日が、世界トイレの日(World Toilet Day)という記念日であったとは、ニュースをみるまでまったく知らなかった。
 いや、知らないのは当然なはずで、何やら今年からユニセフで制定されたからしかたない。何でも世界の総人口に対して3人に1人の割合である25億人が、トイレを使うことができずに、衛生的な問題で命をおとす人が多いらしいのだ。
 特に体力のない子供や老人に至っては深刻な問題となっている。

 現代の私達の社会ではとても理解できないことだが、どうやらこれが世界の実情らしい。
 では、この日本でのトイレ事情はどのようなものであったかと言うと、かなり昔から排泄の場は意識されていたらしく、様々な文献史料からも窺い知ることができる。
 そればかりでなく発掘調査を通して、その実例も間近に見聞できるから面白い。
 折角、トイレの日が制定されたことでもあり、そうした話を少しばかりこれから何回かに分けて語れたらと思うのである。

 さて、トイレにまつわる話として、国内で最古の史料となるのに『古事記』がある。
 ここでは三輪山の大物主が、美しい勢夜陀多良姫(せやたたらひめ)を見染め、丹塗りの矢に化けて川屋に籠る姫の秘所を突いたというものだ。
 つまり矢は男性器を象徴しており、その結果として懐妊し伊須気余理媛(いすきよりひめ)が産まれた。
 これと似たようなものに『山城国風土記』があり、玉依姫が川遊びをしているところを、やはり丹塗りの矢が流れきて懐妊するのである。
 つまりここでキーワードになる場に、川があることに着目しておかねばならない。

 ところでトイレに対して様々な隠語があるのをご存じであろうか。
 日頃、口にするのは「トイレ」や「便所」であるが、なるべく直接的な行為をイメージさせるような言葉を避け「お手洗い」や「化粧直し」などと言い直す傾向もある。
 近年では「レコ-ディング=(音入れ=トイレ)」、「横浜に行く(市外局番が045=オシッコ)」など捻ったユニークな表現もあるらしい。
 登山ならばその姿勢から男性は「雉を撃ちにいく」、女性は可愛らしく「お花摘み」と、やはり間接的な表現が用いられる。
 それは何も最近のことでなく、しばし場を空けることから「憚り(はばかり)」とか、茶の湯の世界では優美さ漂う「雪隠(せっちん)」など、まだまだ沢山の言葉が古くから存在する。
 このようなひとつの施設をめぐり、様々な名称で呼ばれるのも珍しい。
 それは排泄という動物的な行為が必要不可欠なものでありながら、他者に対して穢れにも写ることへの配慮や、羞恥心に起因した心理的背景があるかのように感じられる。

 話は戻るが丹塗りの矢によって懐妊した姫の話しでは、その共通の舞台となったのが川である。
 そこに簡素な建物でもあれば川と屋(建物を意味する)をくっ付けて、「かわや=厠)」なる言葉が発生したのを想像するのはそう難しいことでないはずだ。
 つまり姫は川の側に架かる建物で下半身を曝け出し籠っていたところ、そこに丹塗りの矢に化けた神が川上から流れて来て孕んでしまったというのが、より写実的な話の展開である。
 これが現代社会であれば犯罪であり、大変な問題となりかねないが、それはさて置き古事記の記された頃の古代のトイレ事情を窺い知ることができる。
 天然の水洗式トイレが存在していたのである。

 よく気まずい人間関係にある当事者間で、「水に流す」という言葉を用い、リセットを図ろうとするが、こうした語源も多少なり厠に由来しているようである。
 だが、極めて衛生的なシステムのようにも写るのだが、ここで河川の汚染問題についても考えておかねばならない。
 現代社会における後進国のトイレ事情も、川に直接垂れ流す地域が未だに多いと聞く。
 そうなれば伝染病や風土病の感染経路にもなりかねない。
 こうしたことを憂慮して、世界トイレの日なる啓発活動が開始されたというところである。
 では古代日本のトイレも非衛生的であったかと言うと、必ずしもそうではなかったと思う。
 何故なら現代と昔の人口密度の比率や、井戸水を飲料として確保できた背景を考えると、実に合理的なシステムであったはずだ。

 ただ、明治以降に本格的に導入された西洋医学の発展で、特定の地域においてこれまで明らかにできなかった幾つかの風土病の原因に、川が介在していたという新発見はあった。
 これについてはいずれ日を改め話をすることにしたいが、とにかく臭いものに蓋をするのではなく、連綿と受け継がてきた歴史には教えられるものが数多いうことを知って頂きたい。
2013.08.13
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大分県宇佐市には海軍航空隊があったことで、零戦に関する多くの遺構や遺物が残されています。近くには平和資料館や掩体壕も整備されているので、企画展と併せての見学が可能です。


 いま上映中の『風立ちぬ』や、12月の公開が待たれる『永遠の零』と、太平洋戦争時に向かうところ敵なしと恐れられた零戦がちょっとしたブームのようだ。
 そうした私も2年ほど前から零戦に関わる仕事がたて続き、小学生の頃プラモデル作りで夢中になった燃えさしに火が付いたように資料を読み漁っている始末である。

 さて21世紀を向かえても世界は尚もきな臭さを増すばかりであるが、この日本においても隣国との領土問題で否がをにも緊張の高まりをみせている。
 そこに過去の遺物である零戦を引っ張り出しそうものなら、何だか胡散臭い奴だと思われかねそうであるが、臭いものに蓋をするのではなく、自分たちの歴史として直視する勇気は持ちたいものである。
 それには当たり前のことながら、直ぐに右や左などと騒ぐつまらぬ思想と、史実はきちんと分けて考えゆかねばならない。
 しかしこれが出来ず混同している人が、あまりにも多すぎるようだ。
 
 ところで零戦の正式な名称は“零式艦上戦闘機”と言い、日本海軍の主力戦闘機として活躍したことは広く知られているのではないだろうか。
 その高い戦闘能力と航続距離の長さは、敵対する米国を大いに震撼させ、緒戦においては常に作戦を優位に導く上で欠くことのならない存在であった。
 しかし戦争が長期化に及ぶと後続機の開発の遅れや、米軍の徹底した対零戦研究が、いつしか名機を旧式のものへと追いやってしまった。

 それでも零戦は飛び続けねばならぬ宿命を背負わされていた。
 いよいよ敗戦の色が濃くなると片道の燃料と爆弾を抱え、操縦士ごと敵艦に体当たりしなければならない悲運の歴史を刻むことになる。

 そうした資料館が特別攻撃隊の最前線基地であった鹿児島の知覧や鹿屋にはある。
 ここから多くの若者が片道切符の、決して還れぬ死出の旅に向け大空に飛び立ったのを思うと、つい胸が詰まってしまう。
 しかし戦争は何も戦地だけで行われるものではなかった。
 激戦の末に硫黄島が米軍の手に落ちると、ここを飛び立ったB29が本土を直接に爆撃することが可能となった。
 いわゆる空襲のはじまりである。
 雨霰の如く焼夷弾の絨毯爆撃に曝されたのは、何も軍事基地や工場だけでなく大きな都市もその標的となった。

 そこには武器を持たぬ多くの民間人が暮らしているのを知りながら、こうなるととても戦争とは呼べない唯の殺戮である。
 そして、その延長線上にあるのが、忘れてはならない広島と長崎だ。
 戦争がいくら非情なもので認める訳にはいかないが、暗黙のルールなるものは存在する。
 そうでなければ敵味方関係なく、人類そのものが、この地球上から消滅してしまうことになりかねない。

 
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 東京都府中市白糸台の住宅街に残る掩体壕は、帝都防衛のため陸軍の飛行場があった場所です。つい最近まで無機質なコンクリートドームが空地に放置された状態でしたが、ようやく昨年に保存整備を終えることができました。

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 整備前の掩体壕の内部に入り調査すると、資材不足のため鉄筋の代わりに丸太が使われていた跡が認められ、貧窮を極めていたのが理解できます。ここには飛燕が格納されていました。

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 長崎県大村市には東洋一を誇る大規模な第二十一海軍航空廠が置かれ、24時間体制で紫電改を量産していました。しかし空襲により壊滅的な打撃を受け、その後は周辺に分散して生産は継続されました。ここでは終戦までに工員や徴集された学生など400名が犠牲となっています。いまでは公園に残る掩体壕が、かつての面影を伝えるのみですが、公園の遊具として手すりや滑り台が付け加えられ姿は残念な気がします。
 
 
 ここに戦後68年目を迎え、戦争を体験された方々も高齢化と共にだいぶ少なくなってしまった。
 そして戦争遺構も高度経済成長の陰で、戦争はまるで無かったかのように次々と破壊し尽くされた。
 それでもかつて基地があった場所に、忘れ去られたように何らかの遺構を見出すことが辛うじてできる。
 掩体壕もそのひとつで、米軍の爆撃から残り少なくなった戦闘機を避難させるため造られた施設である。
 そうした遺構がいま見直され、少しずつあの戦争の“本当の真実”を語りはじめようとしている。
 
 どうか探してみて欲しいのです。
 身近に眠る戦跡遺構を・・・
 そして静かに耳を傾けてください。

 
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宇佐市平和資料館には永遠の零で使われた21型の実物大模型が展示されています。

零戦3_convert_20130812160157


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2012.11.06 作兵衛さん
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山本作兵衛さんとチロルチョコを積み上げたボタヤマのオブジェ

 山本作兵衛という画家をご存じだろうか。
 いや、正確にいえば、福岡県田川市の炭鉱町に生まれ育った鉱夫で、明治期から戦前の
激動の歴史の中で、日本の近代化を底辺で支え続けた男である。

 絵そのものは遠近法など全く無視した、美術的には稚拙なものなのだが、廃れゆく炭鉱の歴史を次の世代に伝えようとして、千点を超える水彩画を描き続けた記録的な価値がある。
 そこには常に死と隣り合わせの鉱夫の日常が、リアルにそして克明に、体験した者にしか語れない説明文とともに記されている。
 そのいずれもが想像を絶する世界で、往時を生き抜いた先人達の、したたかで逞しい力を肌身で感じとることができる。

 私が初めて作兵衛さんの作品を見たのは、もう15年近く前のことであろうか・・・。
 飯塚という同じ炭鉱町の資料館の奥の方で、どこか控えめに掲げられていた。
 しかし、そこからは得体の知れないエネルギーのようなものが感じられ、その印象はしばらく心の中に棲みついていた。
 それが2011年5月に世界記憶遺産に登録されたことで、改めてその存在を思い起こすことになった。
 ちょうど隣町にある上野焼きの窯元を訪ねていたところ、作兵衛さんの企画展があるのを偶然に知り、少しばかり足をのばしてみたくなったのだ。

 展示会場には田川市に本社があるチロルチョコレートが山積みに、ボタヤマを形づくっており、その向こうに白黒の作兵衛さんの晩年の写真が掲げられていた。
 その表情はこれがヤマの男かと疑いたくなるような、実に温和な笑みを含む顔なのである。

 歴史とは時の為政者や、一握りの英雄のみで作られるのではない。
 名もなき多くの人々がいてこそ、新たな歴史の1ページは開かれるのだ。
 そう思わせてくれる、力強く勇気を貰える作品である。 
 
d-8[1]
 
 先ヤマとして掘削する刺青男には、後ヤマとして上半身を裸で掘り出した石炭を外へと運び出す女もいた。
 あ~ゴットン・・・
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 天気予報では台風が徐々に近づきつつあることを伝えてる。窓の外にはその気配はまだ感じられず、薄曇の肌寒い風の中に掘り返されたばかりの地面が顔をのぞかせる。
 私は歴史に関わることを生業としている。土の中に永年眠り続けていた遺構や遺物を掘りだし、彼らに何かを語らせるのが仕事だ。

 過去の構築物やモノは案外に饒舌である。そして嘘をつかない。往時のありのままの様子を懸命に伝えようとしてくれる。しかし聞き手であるこちら側の方が、どうも感度がいまひとつなようで隙間のピースをうまく埋められないでいる。
 それでもより多くの証人(遺構・遺物)の話を集め、文献史料に見いだせなかった過去の出来事を繋ぎあわていく。

 ところで文字はよく嘘をつく。そして都合のいいことだけを語りたがる。それも勝者の側の論理で、いかにその人物が素晴らしく正当性があるかをだ。
 だから敗者の歴史は常に日陰に押し込められがちで、名すら残せぬ大多数の人々の声などは、行間の隙間に深く埋もれてしまっている。
 そのためにも文字とモノの両者の話を突き合わせることで、何が真実であるかを検証せなばならない。

 この歴史なるものについてだが、現在の教育現場でどのように教えられているのだろうかと考えることがある。やはり今も受験のための丸暗記で、詰め込み方式と相変わらずなのであろうか。それも時間の都合で近代以降は切り捨てられて当然なるものなのであるのか。
 
 さて、中国や韓国の“反日教育”がもたらした一連の過激な出来事は、ニュースとして連日の如く取り上げられ、それを嫌がをにも眼にせざるを得ない。今や領土問題は日本帝国の支配時代の屈辱的であった感情論にすり替えられ、最終的には“反日”の歴史教育まで要因のひとつとして挙げられている。

 先日、ある討論番組でアグネスチャンが、中国の歴史教育は日本側が指摘するように、特に反日教育を意識したものでないと発言していた。そして事実を事実として伝えているだけで、日本だけが不都合な歴史を誤魔化していると反論していた。それに対して周りの中国人タレントも、一斉にそうだと騒いだ。
 更にそうした真実を伝えない教育は、世界中で日本だけだとも言い放った。

 来日したての頃のあの可愛らしいかったかつてのアイドルが、あれからどこか嫌らしく歪んでみえて仕方ない。しかし私は世界中の教科書を見比べたこともない。果たして彼女が言うように日本だけが、自国にとって都合の良い内容の教科書を使っているのだろうか。ふと考えもさせられた。
 しかしながら思想や言論が保障されている日本において、そんなことがあろうはずがない。だが誤魔化しはないとしても、摩擦を避けるために曖昧にしておきたい雰囲気はあったのかも知れない。

 とにかくこれまでのような受験のための歴史教育では、今後も増々とグローバル化が進む国際社会において、とても日本人としてのアイデインティティーなど支えきれるはずがない。歴史を正しく理解するということは、人類が未来へ進むための大切な海路を照らし続ける灯を得ることに他ならない。

 ちなみに領有権を主張する関係各国は、様々な史料を埃のかぶった棚の奥から持ち出して、いかに過去から自国領として認識してきたかを訴えている。だが史料は時として嘘をつく。捏造だってされる。ならば島に刻まれた遺構をみれば一目瞭然のはずだ。

 韓国はこうした構築物を上塗りするかのように、次々に新たな施設を建てて止まない。中国は軍事力と経済的制裁をちらつかせ、無茶苦茶な論理展開でごり押ししてくる。
 果ては琉球は古来より朝貢してきた中国の属国だと、真顔で信じてる一部の軍部もいるというではないか。ならばあの鎌倉時代の元寇で、甚大な被害を蒙った我が国の歴史はどうしてくれるのかと、激昂してみても埒がないのである。

 なんだかつい硬い話になってしまったが、「歴史を学ぶということは無味な知識を詰め込むことではなく、考える知恵を養うことである」と言うことで終わりにしたい。
 
 
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“くらわんか藤田コレクション” 波佐見町歴史資料館
(以前に骨董市で買い求めたのと同じものも展示されていた)
 


 江戸の遺跡を発掘すると様々なものが出土する。下駄もあれば簪や入歯だってある。
その中でも最も多いのは、やはり陶磁器だろう。それも古伊万里と呼ばれる佐賀県は
有田周辺で焼かれたもので、船積みされた伊万里の港にちなみ一般的にそう呼ばれて
いる。
 その中でも絵柄が簡易で、どちらかと言えば粗悪な部類のものがある。これらは有田
に隣接する長崎県は波佐見が生産地である。器種は椀から皿、徳利と身近な日用品で、
主に町屋など庶民が暮らした地域に集中してみられる。

 この波佐見焼はどちらかと言えば、くらわんか碗の俗称の方が有名で、大坂の淀川を
行き来する船を相手に、“飯くらわんか~、酒くらわんか~”と客引きしていたのに由
来したものだ。つまりこれ以前は陶磁器は高価で誰もが気安く手にできなかったのが、
波佐見で大量生産できる環境が整い、安価なものが出回った結果において、こうした江
戸時代の外食文化にも陶磁器が浸透してきとことを物語る。

 その図柄は簡易で、いっきに筆で描きあげられる素朴なものである。分厚く洗練さに
欠けたデザインながらも、どことなく手に馴染み易い温かみが特徴である。最盛期は18
世紀代の江戸時代後期で、大村藩の特産品として隣の鍋島藩の伊万里から有田産と
共に一大消費地である江戸や大坂に向け船積された。

 その後明治に入ると鉄道が敷設され、船に代わり汽車で輸送されることになるのだが、
そうなると名称も伊万里から有田へと出荷地の名前となるのである。しかし波佐見焼と
しての知名度は依然として低く、その需要とは裏腹に有田の陰に隠れた存在であったと
言わざるを得ない。

 さて。現在も中心街から一歩谷筋に向けて車を走らせた山里には、狭い斜面に折り重
なるようにして窯元が甍を連ね、そこに幾本ものレンガ造り煙突が競うように建ち並ぶ。
作風は相変わらず気取らない伝統を守り、どこか懐かしい親しみを覚えるのは私だけで
はないはずだ。この里からいま少し行けば棚田の風景が広がり、毎年秋にはユニークな
姿をした案山子たちが出迎えてくれる祭りもあるので、これからの行楽シーズンにはお
気に入りの碗探しに出かけるのも一興ではないだろうか。

「第13回鬼木棚田まつり」は以下のホームページにて紹介されてます
http://www.town.hasami.lg.jp/yakuba/nourin/tanadamatsuri.htm



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中尾山地区には、たくさんの窯元の煙突が並ぶ

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さっそく“芋焼酎喰らわんか~”なのだ
(広東碗と呼ばれるタイプで、高台が高く、体部は直線的で角度がある)
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炎天下の下で、大人に交じり小さな子供も懸命に練り歩く


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左側にさす刀は鞘よりも柄が倍以上も長く、太鼓に括りつけておかねばならない


 豊臣秀吉といえば立身出世物語を絵にかいたような痛快さと、気さくな人柄と庶民性もあり人気の高い武将のひとりでもある。しかしその晩年は傲慢で、年老いて授かった幼子の行く末を案じるあまりに、猜疑に凝り固まりついには甥である関白の秀次と、その一族の首までもはねてしまう。そして国内を平定し終えると、今度は海を渡り明国にまでも野望の眼が転じられることになる。途中において講和期間があったものの、1592年~1508年の7年間にわたる文禄・慶長の役は、国力を疲弊させるばかりでなく、隣国の朝鮮や明を苦しめることになった。

 少し前置きが長くなってしまったが、かねてより見ておきたかった伝統芸能がある。今風の派手さはなく、知名度も限定されたものだが、歴史は古く文禄・慶長の役の頃まで溯るらしい。それは鹿児島県姶良市で、毎年8月16日のお盆明けに“太鼓踊り”として催される。この戦いで島津義弘に率いられた1万数千もの軍勢は、見知らぬ異国の地を転戦して回ることになる。だが内陸深く攻め込むと、至る処で兵站地は寸断され、慢性的な兵糧不足と厳しい冬の寒さに多くの犠牲を払わねばならなくなった。それでも善戦すること、その勇猛で知られる隼人の剽悍さは敵である朝鮮も怖れをなすほどであったらしい。現代でも“シーマンズ”という言葉と共に、厄祓いの神として崇められるのはこうした由縁がある。

 さて秀吉の死と共に戦は終結したが、帰国した際に義弘が習い覚えさせたのが太鼓踊りの発端であるらしい。戦国時代を生き抜いた武将であるとはいえ、多くの仲間の屍を残し、どのように故郷の地を再び踏めばよいかの迷いもあったであろう。それを払い去るにも何らかのイベントを必要としたのかも知れない。異常に長い刀の柄を太鼓の前に突き出し、白塗りの顔に立派なつけ髭をしたユーモラスな格好だが、先導する舞手と小鉦に二列縦隊で黙々と従い練り歩く姿は勇壮で、遠い昔の薩摩武士の片鱗をも感じさせられるようだ。


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吉左右踊りは西別府地区だけに伝わる独特なもので、陣中に白狐と赤狐が現れ勝利したのを表現する
後続の向かって左側の長刀を抱えるのは朝鮮軍で、右側は島津軍である 



 また同地区には“くも合戦”なるものも盛んで、6月の時期が到来するその1月前には山野に分け入り、強そうなコガネグモを捕えては自宅の庭や屋内で飼育する。これも義弘が陣中にあって兵士の士気を高め、日々の慰めにしたのが起こりだと伝えられている。また、さつま川内市には出陣した湊があり、ここには久見崎盆踊りがあり、別名をを“想夫恋”ともいうが、太鼓踊りと同じ日の盆明けに地元の夫人が、黒紋付に黒頭巾のいでたちで、哀調溢れる調べにのせて輪になり厳かに踊るものである。これなどは朝鮮で犠牲となった夫や子供を偲ぶもので、時を超え様々な形として伝えられるものがある。


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くも合戦”は一本の棒の上で先に糸を切られ落ちるか、絡めとられれば負けである


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出番待ちの小さな継承者たち
いつしか故郷の懐かしき思い出として心に刻まれるかな